「精神的ストレスを解消しましょう」
よくそんなことが説かれることがあります。
「体の不調は、精神的ストレスが原因となることもあります。だからストレスを発散しましょう」
そんな事がよく語られています。
しかし、そもそもストレスは解消する性質のものではありません。
ここが世間の勘違いです。
うつに関する話題となるとすぐに「精神的ストレスを解消することが大切です」という話が出てきます。
しかし、「解消する」というのは少し本質からズレています。
「いやいや、ストレスは溜まるよ」
「スポーツで発散してるよ」
などと言われるでしょう。
でも、本当は違うのです。
これは断言しておきます。
ストレスはたまりません。
あくまでリピート
ただ、神経はすり減っています。
つまり、なんというか頭の中が疲れてくるのです。本来はそんな神経のすり減りも寝ればすぐに修復します。
その原因はストレスを感じた時の記憶が何回もリピートされているからです。
「ストレスというものが存在し、それが溜まってくる」というような認識が多くなされていますが、本質的にはそうではありません。
ストレスは文字通り「負荷」であり、その負荷は常に瞬間的なものです。
そして、記憶が何度も再生されるため、瞬間的な負荷が何度も繰り返され、その都度神経がすり減っていくのです。
記憶が頭の中で繰り返されると、身体や頭はその現象が起きた時とだいたい同じ反応をします。
実際にその出来事が起きた瞬間は一瞬です。感じた感情も本当は一瞬で、だいたい数秒の出来事です。
口喧嘩中も、追加でどんどん感情が押し寄せるだけで、本当は怒っているのは一瞬です。
一時間続いたとしても、その一時間しかストレスはたまりません。
ただ、思い返すと、また同じストレスがどんどん追加されていきます。
厳密には、ストレスが溜まっていくと言うよりもストレスがかかった分の体の負担がどんどん追加されていく、つまり疲れてくるという感じになります。それがコリや歪みとして身体に記録されるという感じで溜まるということはありますが、精神的なストレスが、精神現象として溜まるというわけではありません。
そうして、記憶を思い出す度に、本当は5秒しか感じていないストレスを、厳密に言えば瞬間的にしか感じていないはずのストレスを1日数時間も感じ、それを数日間も繰り返してしまいます。
そして、その度にかなりの疲れがたまって、修復が追いつかなくなるのです。
実際にストレスを感じている時は、体も毒素でいっぱいになるようです。
言ってしまえば、危険を感じている時の緊張状態のようなものです。本来そうした緊張は短時間で終わるはずです。
本当は狩りの一瞬の瞬発力のための戦闘態勢が、一日中続くのです。
疲れないわけがありません。
人間の体は結構強いはずです。
マラソンを走っても、富士山に登っても死にません。体力なんかそれくらい使っても死なないのです。
でも、神経はそうではないのです。
「スポーツで発散」などと言いますが、確かに体を動かすと気分は変わります。でも、それは思考リピートを止めてくれたり、血行が良くなってコリがほぐれているからであって、一時的なものにしか過ぎません。
無いよりマシ、くらいなもので、根本的なものではありません。
そんなアドバイスは体育会系のうつ未経験者が言うことです。
嘘でもデタラメでもありませんが、+αくらいの要素です。
感情なんか感じきれ!
ストレスを感じるような記憶のリピートを止める方法もありますが、それは小手先です。
即効性と多少は効果がありますが、いずれ蒸し返してしまいます。
「ストレスを溜め込んでしまう」というふうに考える人は、基本的に感情を否定してしまっています。
その原因は何か。
それは理性です。
世間では理性をすごくいいものと思っているかもしれませんが、行動を止めているのも、気持ちを苦しくさせてるのも、だいたい理性です。
わかりやすくするために、今ここでは理性とは、常識による状況判断というふうに言い換えましょう。
「穏やかに対応するのが大人の対応」
「育ててもらっている立場があるから言えない」
など、感情の分野に常識による状況判断を持ち込んでしまうと、感情を心の奥に閉じ込めてしまします。
そうするとまた、頭の中で繰り返されることになります。
しかもその常識は、検証したわけでもなく、逆らったからといって、何がどうなるわけでもないのが常です。
ただ、当の相手には逆らわなくてもいいのです。
自分が怒りを感じれば、苦しいほどに怒りを感じるのです。
じゃあ意外とどうでもよくなります。
ところかまわず好きな子には「好きでたまらない」と叫びましょう。
なお、普通、嫌な感情がやってきたら「感情を消そう」としますが、感情を感じきるということについては「感情を認めその中に飛び込もう」でもう少し詳しく触れています。
感情を否定せずに観察してみましょう。特に人が決めたような基準を元に理性で感情を抑えてはいけません。
その感情は純粋な感情です。
それをしっかりとリアルタイムで観察してみましょう。
思考の転換の危険性
よく自己啓発系の人たちはポジティブなふうに解釈を変えろといいます。
そうしたアプローチも確かに一理はあるものの、本当に解釈が変わって、笑い話なんかに転換できればいいのですが、これは全てに適用できるかは少し怪しいです。
たとえば、「左遷された」くらいなら、仕事観を見つめ直すいいチャンスくらいに思えるかもしれませんが、劣悪な犯罪被害にあった場合など、どうやってポジティブなふうに解釈を変えられるのか不思議です。
また、ポジティブな方に解釈を変えねばならない、という強迫観念や、ポジティブなふうに解釈を変えてみたけど、どこか心の奥では、自分を騙しているような気分になって、結局もっとひどいことになる危険性があります。
映画みたいなもの
ところで、よく考えていただきたいのですが、映画を観ると、感情移入したりします。そうすると気分が変わります。
映画は、目と耳から入ってくる情報です。
でも気分は変わります。
少し待ってください。
現実に生きていても、五感から入ってくる情報です。
実はあまり変わりありません。
映画の中では主人公の思考パターンで勝手に進んでいってくれますが、現実は自分の思考パターンで物語が進みます。
でも映画も現実も共通しているのが、「実は感じているだけ」という点です。
自分の思考パターンは自分が作りましたか?
学校や家族との触れ合いの中で勝手に出来上がってませんか?
しかもそこで教えられたものは、「自分にとって相手を管理しやすいから」という類の常識ではありませんか?
習ってきたこと、教えられたこと以外にも、メディアから得た情報、人からこっそり聞いた情報など様々な情報源があります。そうした他の情報によって形成されていませんか?
少し哲学的になりますが、ということは、自分の思考パターンは自分が作ったものではないのかもしれません。
でも、確実に感じている自分はいるはずです。
ストレスは一瞬しか起こらない
「ストレスは溜まるものであり、解消する必要があるものである」
という発想をまずは捨てましょう。
いきなりすぐに捨てられないのなら、せめて「そうした発想を捨てることができるかもしれない」という風には思っておきましょう。
記憶は体験が元となってはいますが、今起こっている物事をどういうふうに解釈して捉えるのか、というところは自分以外の人たちなどから勝手に作られたものです。そんな中、ひとまずは勝手に記憶を再生したりしてしまうのは、ある意味で自分以外の要因から自動的に起こっているようなことだと思いましょう。
で、そうした中、ストレスは溜まるものではありませんが、ほとんど必ずと言っていいほど日常で感じてしまうことにはなります。
その大半は体の疲れだということを念頭に置きつつ、本来ストレスは一瞬しか起こらないということには気付いておきましょう。
ストレス自体は生存本能として体としては必要なものです。
危険を察知して一時的に緊張することは、思いっきり逃げたりするのに役立ちますからね。
しかし、記憶を再生することによって特に意味もなく、その場で緊張する必要のないような瞬間にまで緊張しているのだから、体は無駄に疲れてきます。
そして、思い出しただけでもストレスがかかりますが、改めて何かをするにあたっても、その記憶の中にある不快感のようなものをまた味わうのが嫌で、「危険予知」として今起こってもいないことに対してストレスを感じてしまうのです。
そんなストレスの影響をなるべく無くすにはどうすれば良いか?
それは非常に簡単で、感情をその場に置いていく感じで、感情が起こった時にはそれを傍観し、ラベリングしていけばよいのです。
なるべく今現在に意識を集中し、過去や未来についての想像を止めてしまえば、「記憶」を発端とした無駄な感情は発生しなくなります。
それでも、集中がブレて感情が起こり、感情に苛まれてしまった場合は、それを客観的に観察するようにして、その場に置いていきましょう。
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