偶然への気付きと必要なき裏付け

生きている中で起こる全ての出来事には偶然の要素が含まれています。この偶然とは思考の範囲外、自我による想定や判断の範囲外という意味くらいに考えていただければ良いでしょう。

自分が努力したからとか、努力しなかったからとか、才能があるとかないとかいった印象はアイツこと自我の判断であり、すべての要素を分解すると偶然要素がふんだんに含まれていることに気付きます。

また、願いのようなものが叶っているかいないかという点について、「特定の何か」に限定して「考えて」みると、叶っていないような気にもなりますが、抽象的な幸せに関しては、それを意識しているかいないかで、本質的には「叶いまくっている」という感じになっています。

思考の範囲外の偶然の連続

今までいくつかの投稿で触れていますが、友人と友人になったのも、今の仕事などを選んだということにしても偶然の連続という感じになっているはずです。自由意志で選んだように見えて選択肢は偶然によってもたらされ、意志決定の要因にしてもそれまで得てきた情報が組み合わさって最適を選んだというだけになっているので、結局偶然の要素という感じになっています。

「たまたま何かを好きになり、得意になり、求職の時の求人状況はあんな感じだった」という感じになっています。

「たまたま隣の席だったとか、部活動が一緒だったからということである人と仲良くなった」ということもそうですし、「それを買いに行こうと思ったわけではないのにたまたま自分にピッタリの商品があったから買った」ということも偶然ばかりです。

そしてそんな感じで苦しんで努力したようなことではないような結びつきはたいてい「幸せ」につながっています。しかし義務感から苦しんで行ったことは、うまくいって「ホッとする」、そして期待していた通りにならなかった場合はがっかり感や悲壮感などがやってくるといった格好になっています。

何かしらうまくいったなぁと思うようなことを振り返ってみると、どうしても偶然の要素が含まれています。

思考を使うと屁理屈のように感じてしまうかもしれませんが、そのばその場である程度健康体であったということ自体が一種の偶然であったりすらします。

ということなので、「自分には能力がある」というようなことの全てが突き詰めれば「傲り」ということになってしまいます。

「あなたはツイていますか?」「私はツイています」を裏付けようとしない方がいい

某家電メーカーの面接で「あなたはツイていますか?」という質問項目があったことは結構有名ですが、そうした点について経済雑誌などではすぐに「この質問の意図は何か?」ということなどを論理展開しようとします。

もちろん面接における「あなたはツイていますか?」という質問には何かの意図があるのでしょう。しかし、だからといって「こういう考え方をしている人が大企業で採用される」というようなチンケな帰結になるというのはもったいない話だと思っています。

「あなたはツイていますか?」

「私はツイています」

「なぜそう思いますか?」

という流れ自体が、アイツの大好きな「思考」そのものを示しています。

そこで回答をしたとしても、またアラ探し的に質問が返ってきます。ということで、いちいち質問に対して打ち消しが必要になってしまいます。

解釈しだいで、別にツイていたというわけでもなく「普通」という感じで捉えることもできますし、周りと比較したりすると「それほど」という感じに思えたりもします。

しかしながら、良いとか悪いとかそうしたことは、そうした様々な可能性の検討や比較などの思考を用いない限り判断が起こり得ませんし、元々物事というのは無属性でフラットなものです。

そこで少し確認しておきたいのが、「ツキ」の判定をして起こる結果の方です。

現象は同じであるのに、気分が良くなるか、悪くなるかということを考えれば、前者の方が良いに決まっています。同語反復的ですが、気分が良いので良いわけです。

また、「きついなぁ」ということも解釈しだいで気付きや成長の糧となるので、それすらも良い方に捉えることができます。

また、もし「きついなぁ」と思うような事が起こったとしても、それは既に起こったことです。

結果を操作しようとしても現象としての結果は結果なので、操作しようがありませんし、操作する必要はありません。

つぶやきで思考を乗っ取る

ただ、こうしたことを無理に思い込もうとする必要もありません。思い込もうとするのではなく、そうは思えなくても適当なつぶやきで思考を乗っ取るという感じで過ごすだけで十分です。

理想で言うと最高なのはヴィパッサナー状態ですが、それが難しい場合は、ひとまずつぶやきで思考を乗っ取る感じで過ごしましょう。

ひとまず情報的なこと、現象に対しての思考的部分は、「まあいいか」とか「これもこれでツイてるなぁ」とか「ああそうか」といったような言葉をつぶやくことでアイツの動きを乗っ取っておけば良いのです。

しかし一方、体の方はしばらくストレスと感じたりしています。ただ、ストレスというものは、本来精神と言うよりも体の反応、体の状態なので、これはこれで呼吸などを操作すれば事足ります。

呼吸を落ち着け、上がっている肩を落とし力を抜き、下腹に意識を向けて意識を沈めていくような感じで短期的には落ち着かせた後、肩甲骨周り、横隔膜らへんをほぐすような運動、マッサージなどで柔軟性を取り戻していけばどんどん落ち着いていくでしょう(変な宗教まがいの団体に誘われるような形でなければ、ハタヨガが一番良いかもしれません)。

呼吸が浅い感じが続くとストレスを感じやすくなります。

そんな時は、短期的には深呼吸でいいですが、根本的に呼吸がしやすくなるように工夫をしてみると良いでしょう。肺が広がり、呼吸が深くなり、肩首もほぐれてくると、現象の見え方も変わってきたりします。思考が復活しても、解釈は比較的明るいものになっていくでしょう。

この瞬間の体感が全てと気づく

というようなことはひとまず思考での理解の範疇ですが、本来は、思考をパスして「この瞬間の体感が全て」と気づくような感じが理想的です。

時間も空間も一種の錯覚であり、思考で判断しようとすると判断対象になるといった程度であり、「現実」というものは瞬間の体感というか、瞬間的に受け取っている状態がどのような感じかということにしか過ぎません。

一切が自動的に生起し消滅しということを繰り返し、それを単に認識する働きである心が受け取っているだけであるという感じになります。

それを頭で捉えるのではなく、まずは体感で捉え、そして心のみで捉えてみてください。

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

「偶然への気付きと必要なき裏付け」への3件のフィードバック

  1. 朝日ともにおはようございます、ぺんたくやです。

    前回は、ありがとうございました。
    本記事をお借りしてお礼申し上げます。

    また気になるテーマだったので、コメントさせていただきました。
    というわけで今回もよろしくお願いします。

    ーーー

    偶然に関して。
    たしかに自分が素晴らしいと感じた作家さんやアーティストにも触れる機会が現在進行形でまだまだあります。
    知名度とか関係なく単純に「いい!」と自分が思えたものです。
    共有するできる人は自分の周りにはいないのですが、ただ自分が好きだからいいやと思ってます。

    抽象的な幸せについてですが。
    何をなすにもやはり気持ちが健康なことがなによりだ思います。
    これは精神状態を含め、今の自分のアンサーになりうるのではないでしょうか。

    それにしても風邪の勝利者は自分ではなく、常在菌達ですよね。
    身体が泥のように沈んだ時でも、人知れず戦ってくれていたようです。これはありがたいものです。

    生き物である以上、病死することもあるとは思います。だけど生にすがることなく、これらの問題はあくまでもこの子達に背中を任して「自身の気持ち的には元気」な最期を迎えたいものです。

    ひとつ例にすぎないですが、抽象的な幸せに関してまだまだ自分が気づいていない事柄がきっとたくさんあるでしょう。

    渋谷のスクランブル交差点は大人の濁流です。幼稚園児だけが歩いてもいいじゃないんですか?
    ….でも、やはりそれがきわどい世界のようですね。

    誰も喋らないのに、一定の方向に突き動かし、それが集団になると暗黙のメッセージ性を帯びてくることがありますね。それは嫌いです。

    それによって、とばっちりを受けるものがあるように感じます。障害、病気、怪我、人種….。他人であれ本人であれ、きっとそれらは必要以上の濡れ衣を着せるお手頃な対象物になっているように感じます。
    まぁ境界を作ればひとまず安心してられますからね。笑

    皆が脅されることなく、それぞれの信じるものが信じられればいいとは思うのですが。

    「とにかく元気だよ!」
    深く追求せずに、全てを包括して単純にこれだけでもいいと思うんですけどね。

    そういえば出身が海外の方と喋ることがあるのですが、毎回あいさつの後に必ず「元気?」って尋ねてくることを思い出しました。お国柄なのかよく分かりませんが、なんかそれはいいなぁと感じますね。

  2. コメントどうもありがとうございます。
    良いという感覚、とりわけ判断的なものよりも直感的な体感を大切にしてください。

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