駄目になる

同じ考え方の人間を、違った考え方の人間よりも高く尊敬せよ、と指導するなら、青年は一番確実に駄目になる。 曙光 297

知識と知恵は違うとよく言われますが、たいてい語られている知恵は知識の部類の中に入るでしょう。たまに「難しい漢字を使う方がいい」と思って「智慧」を使う人がいますが、狭義の智慧はインスピレーションなどではありません。むしろ知識やインスピレーションとは真逆の性質であり、「そぎ落として捨てるからこそ迷わない」というようなものです。

たまに「無駄な知識を増やしても仕方ない」と言って勉強することをしない人がいますが、「理解できるが採用しない、話は聞くが影響されない、相手の言っていることを誤解なく理解して相手の意志を汲み取るという事ができる」ということと、「そもそも理解できない、だから聞かない」ということはまったくもって違います。

知識が無駄だというのなら、どういう点が無駄なのかを説明できなければならない

勉強は無駄だという人がいるなら、どういう点が無駄なのか、余計な知識を得ることが無駄だというのなら、マスコミの言うことはウソばっかりだというのなら、どの点が無駄で、不確定事項で、ウソなのか、説明できなければなりません。

ある知識、知識体系を出だしから排除してもいいですが、排除する理由を説明できなければなりません。それも出来ないのに、相手の理屈を「そもそもまず聞きすらしない」というのは自分のアタマが悪いということを暴露しているようなものです。

アタマが悪いということは集中力がなく、理解できず、「あるものとあるものの差」がわからないということです。たまにクイズ番組で歴史上の人物を知っているかどうかで「IQが高い」などと言いますが、そもそもナンセンスです。知っているということは、それ以外のものとの区別ができているというだけで頭の回転や思考の幅広さ、視点の高さには関係ありません。

集中と智慧の方向は同じ、知識と智慧は真逆

集中と智慧の方向は同じです。知識と智慧とは真逆になります。

つまり分散させるのではなく、たくさん意識が向いてしまう対象があっても、ある対象以外は意識に入れない、ということです。

それが現在の認識などであれば集中、知識の分野であれば数ある可能性、方法論、主義などを理解し捨てるということです。

理解できないのに捨てるというのは少し違います。人が唱えたことで、いくら聞いても理解できないものはありません。理解するだけなら、どんな分野のどんなものでも理解が可能であるはずです。もしそれが出来ない場合は、定義が曖昧であるなど、相手の理屈に欠陥があるか、論理的に情報量が多すぎて競合している状態、つまり「矛盾」といった具合になりましょう(矛盾とパラドクス)。

知識は増やしていくものであり、嫌でもどんどん増えていくものです。そして様々な方法論を知っているとそれが判断の際に「切れるカード」が増えるということなので迷いが生じていきます。だから増やすことばかりではいけないということです。

しかし「面倒くさいから」とまず理論や相手の話を理解すらしようとしないというのは、捨てる前に捨てる対象すら無い、ただの虚無の状態です。面倒くさいという気持ちは意識が分散しているか、エネルギー不足の状態です。

知識を限界まで理解し、考えぬくと

「あ、こりゃ使えない」

となるはずです。

そこで捨てることになります。

そうして何もなくなった状態が、智慧の現れです。

そこからまだ智慧はどんどん開発され、発展していきます。

まずは知識や論理の限界を超えることです。

様々な意見を聞く

そこで本題ですが、「同じ考え方の人間を、違った考え方の人間よりも高く尊敬せよ、と指導するなら、青年は一番確実に駄目になる」というのはなかなか面白い箇所になります。

様々な意見を聞くことはいいですが、採用する必要はありません。相手から教えてもらったらその教えてもらった内容に従わなければならないかのような錯覚が起こります。

理屈や意見を聞いても、それを採用する必要はありません。

民主主義の多数決、体育会系の上下関係など、一種のキチガイ状態の中にいるのだから、そんな気持ちが起こるだけです。

聞いても苛立ったりしてはいけません。全て自分の心の改良の材料として、いらない属性はそぎ落として、心を見つめるヒントに利用すればいいだけです。

相手は関係ありません。

ただ、最後には拒絶する前提で聞いてはいけません。「できたらその考えでいこう」くらいにまで集中して聞くことです。そして、聞いた後にはその理屈だけを抽出してさらに考えることです。

「なるほどわかった、しかし相手の趣味に付き合う必要もあるまい」

といった感想がやってくるでしょう。

駄目になる 曙光 297


苦悩や考えがループする場合、そのエネルギーの方向を変えて縦横無尽に展開させることで、本質的な部分の発見か、もしくは、ぼやけすぎて意味をなさなくなるか、のいずれかにたどり着きます。その材料として「知識」や「様々な意見」が使えたりします。

苦悩を縦横無尽に展開

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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