イエス・キリストの意志を「キリスト教」が踏み潰したということをニーチェが示すように、ある体系だった合理性や組織、マニュアルこそが、生命の意図するところを阻害していきます。
AはBであるべきであり、Bであれば満足するという構造が苦を生むということにもなりますが、ここで生じるのは、AがBではなくCであるということを受け入れることも苦を生じさせるという点です。
―
純化させるということは、とどのつまり、それのみを選ぶということではなく、一切の対象の重要度をフラットにするということです。
しかし意識の上で、論理の上でその「構造」を理解していても、実際には重要度というものはフラットにはなりません。
現実的行動としてこうすればよい、こう考えれば良い、というようなものでは、そうした領域にはなかなかたどり着けません。
―
意図を制限するもの、選択を狭めるもの、近視眼的に苦の領域に閉じ込めるもの、それは慣れ親しんだ自称「最適解」であり、身体レベルの癖です。
無意識は正しいとしても、現在の無意識のパターンが正しいとは限りません。
―
何かについての罪悪感、それが一切の制限の元になります。
そして、それは単に思考としての論理パターン、― ある合理性、― ニーチェがキリスト的ではなくキリスト教的なものを示したもの、によって生まれます。
ある情報状態、論理空間は正しく、それを再現したいと「考え」ますが、そのために体系化されたものは、元の意図とは逆の方に噴射します。
―
今の意識の向きのそれが、生成された今のそれです。
厳密には生成されたものではなく、「無限に存在する状態の中から選択されたもの」です。
それが不快なものであったとしても、相応の不快感を「基準」としているということを示すだけです。ある程度の不快、ある程度の不快なホルモン状態を意図しているということです。
ある程度怒ったり、激昂することが習慣になっている場合は、そのノルアドレナリン濃度の状態が、私が私として存在するという実感の最適解であり、その状態にするために、怒りを生じさせる現象が起こっている、というふうに捉えることもできます。
―
改めて、伝統的な仏教で語られていること、キリスト教で語られていること、西洋哲学なり脳科学で語られていること、というような権威性を根拠にした領域は、素早く脱するべきであろうと思います。
それ自体は、梯子のようなもので、ある状態へのきっかけにはなりますが、この心としてそれが何にもならなければ、結局、振り回すだけのくだらない情報空間であると捉えることもできます。
―
力の感情の感覚は、深い変性意識状態になるか、もしくは変性意識ゼロの状態によって、最大化されます。
純化される、ということです。
つまり、選択を制限しているものが、どんどん剥がれていくということです。
―
自惚れ。
どのようなものにしろ宗教空間に属しているものは自惚れています。
自惚れのもとに、自惚れ空間を味わうということになるのでしょう。
―
ある空間に没頭すると、「ある空間の内側にいなければならない」という求心力が働きます。
しかし、たいてい破滅が待っています。
元は「意図するところ」だったものが、知らぬ間に維持するものになることがあります。
そうなると破滅に向かいます。
―
執著の領域から脱するということは無視するということではありません。
より高みに向かっていくと、それへの執著がどんどん無くなっていく、という自然な流れが正しい、と思っています。
―
つまり何事も「で?」の領域です。
自惚れによって自尊心を多少なりと充足させたとしても、「根本的なもの」は残っています。
ある強者がそう言っていた、それに追従してその空間にいたい、というのは、たいてい破滅的です。
―
倫理観というものは、たいていダメな方に働きます。
倫理観を曖昧な論理で受け入れずに、倫理領域を採用するなら徹底的に倫理を論理で検討すべきです。
―
知らぬ間にアフォリズム的な形式になっていますがそれはそれで良いでしょう。体系的なものは、理解しやすさをもたらしますが、同時に理解したとて血肉にはならないというようなことをもたらします。
ある程度の変性意識状態を保っていると、自動書記のように自動タイピングが起こります。
その方が深い部分で血肉になるものを提示できるかもしれないとは思っています。
―
真面目に考えたところで、真面目空間である程度の生かさず殺さずの領域に閉じ込められるだけです。
「いい人だと思われよう」
その根底には生存本能的恐怖心があります。
本当は、どうしたいのか、自分にだけは嘘をついてはいけません。
嘘をつくと、嘘に応じた現象が起こります。
―
カルト教祖は、「悪いことをすると、悪いことが起こるぞ」と連呼していました。
しかし、何をもって「悪いこと」と定義するのでしょうか?
それは、社会的で定言命法的なものではなく、そうした規律によってもたらされた罪悪感とセットになっているはずです。
「知らんがな」という立場に立つには、本当のバカか、行ききった賢者になる必要があるのかもしれません。
―
真面目というものには裏に規律規範のようなものがあり、その裏には一種の合理性があります。
しかしそれは本当の合理性ではないかもしれません。
イエス・キリストの意志を体系化して組織としてのキリスト教にしたゆえの誤謬についてニーチェが指摘したように。
―
「相手がどう思っているか?」ということを検討しないこと、それが本当のモテを生みます。
思考をバイパスして、力の感情のままに、ということの良い例です。
―
「罪悪感ベースの説得」
こうしたものに巻き込まれてはいけません。
ある人は、「相手に罪悪感を感じさせて相手にモチベーションを生み出してもらう」ということを成功法則にしているだけかもしれません。
まあ社会の大半が、この空間に飲まれていることでしょう。
―
「私という臨場感」
そればっかりに囚われている場合ではありません。
私というものを客観視する視点、その視点と並行して、今の無意識を見るように、今の情報空間の状態を見てみるということをすると、ほくそ笑む程度か、爆笑かはわかりませんが、笑いが込み上げてくるかもしれません。
―
続きはまた。
―
その続き。
くだらん、つまらん、という感想は正しく、その感覚はしっかりと感じておいた方が良いでしょう。
かつてあった面白さを取り戻そうとするようなものは、方向としては正しくても、方法として歪みを生じさせるかもしれません。
「消費すれば無くなるという感覚」
「投資的ならばよいだろう」といういかにも賢明そうな判断によって、消費という行動を相対的に比較してしまうことがあります。その結果消費に「無くなるもの」という属性を与え、それを強化しかねないという面があります。
物理的にはいったん消失するとしても、「その感覚がまた現象を生み、また感覚を生む」という面はあまり語られません。
―
「何にエネルギーを注ぐべきか」
意識の向きと周波数のようなもの。
もし、不快なものに感情を奪われているのなら、それにエネルギーを奪われていると表現することもできます。
―
「間接的」
とにもかくにも、まずは心の立ち位置です。
あらゆる願いは、間接的にまわりに回って自分の心が平穏でありたいという、非常に不器用な構造を持っています。
これはそれっぽく、それでいて意志をかき乱すだけの「自称コンサルタント」にも似ています。
―
礼儀などというものも、たいていただ単に攻撃されないため、わずかでも有利にしたいがために存在します。
一方、礼儀のようなものが単に温和な精神からにじみ出ているだけという場合もあります。
表層上の言動は同じようですが、曇りなく観察すればその程度くらいはすぐに見分けがつきます。
―
習慣と環境をまず破壊するというのが良いかもしれません。
一日二日ではどうにもなりませんが、数週間、数ヶ月、数年と離れていると、切り離せなかったものが、難なく切り離せるようになります。
結局切り離せるのであれば、しがみつくようなものではなかったということになります。
数年経って「しがみつくようなものではない」と思えるのであれば、本当は今この瞬間にもしがみつくようなものではないはずです。
大事だと思っているものも、全く異なる環境に身を置いて数週間立つとそれが薄れていきます。
つまりそれは、苦の感覚も同様であるということを仄かに示します。
―
それもこれも主観感覚、私というものへの臨場感が強いからというだけで、「客観的にこの人物は何をしているのだろう?」と傍観者、鑑賞者として私を観察すると、ぼんやりと異なる感覚が生じてくるのではないかと思います。
この物語の主人公たる「私」は、過去にこういう経験を持つという文脈の中で、あの人にこのようなことをされて、こんなふうに反応している、というような構造を、第三者目線で見るというような感じです。
このような見方で世の中の人をフラットに客観視すると、どんどんと動物を見るような感覚になっていきます。
奥底に自尊心の充足、恐怖心の緩和、外部刺激による焦燥感のごまかし、無刺激だとつまらなくて発狂する不安定な精神、色々なものが見えます。
ただ無意識的に関数が働いていて、一種の演者として振る舞っているだけで、その人は本当に幸福なのだろうか、と思うようなことも起こるでしょう。
そしてそれをどうにか変えたいと思うこともなくなります。
―
「私」の意見を理解しないので、相手は愚かな行動を取っている。相手の頭が良くなれば、せめて理解して同意させることができれば、私の正しい意見のとおりに相手が動き、結局私が満足する、ということを考えているのが世間的普通です。
永久に苦悶の中を彷徨うことになるでしょう。
―
私の意見が正しくない、ということでも、私の意見を相手に納得させることを意図するのが良くない、ということでもありません。
「そうしないと、それが叶わないと、私の心は落ち着かない」という、遠回りな構造がよくありません。
―
「徳の教育」
徳の教育というものは誰の何のためにあるのでしょうか?
徳についての利点と、その裏にある弊害について、しっかり示せるほどの賢明さを持たずに、徳について考えることも語ることもしてはならない、と思いつつも、そうした領域にたどり着くためにはプロセス的に考えることや語ることが必要になるのかもしれない、と考えると、「考えるなら徹底的に」と示しておくのが良いのかもしれません。
―
「正しそうで明らかな誤謬」
僕が根本的には嫌悪する視点。
エンターテイメント要素ではなく、根拠として利用しようという意図を持つ社会学。
自分を含めて「誰かの精神」を説得するためのデータ利用、データドリブン。
自らの心を見ようとしない政治思想、社会思想。
―
続き。
罪悪感がないということに対する確認作業として、悪事や怠惰を意図的にする、という構造になっている場合もあるのではないかと思います。
「制限」が問題であり、本来確認作業など必要がないにも関わらずです。
これは慣れによる順応で、感覚が薄れるということを思考として意図しているということの表れでしょう。
―
「二重拘束」
「あれをするのは嫌だが、かといって何がしたいというわけでもなく、何もしたくない」
という状態。
何もしなければ、いずれ、どうにか何かたまらなくやりたいことを思いつくのではないか、という期待。
「あれをやれば、ひとまず落ち着くが、やったことによってまた次の鎮火すべきことの種を蒔くことになる」という構造。
そのようなものが、どんどんと曇りを生み、制限をもたらすという格好になっています。
―
続きはまた。
―
そのまた続き。
(一応10000字を超えるまでは続きます)
Aという現象とBという現象は本来繋がっていません。
それを繋げるのは自我。
しかし、繋げて嬉しいのならどんどん繋げましょう。
AとBが繋がっているということにしないと、ある体感にリアリティがありません。
なので、繋げるんですね。
―
これほどまでに精巧に現実を感じるということは、すごい力だと思うことがあります。
そして現実が展開したことにもすごいことだなぁと思います。
しかし、すごいですが、それが普通でそれしかないんです。
―
現象に対する態度は常にフラットがいいですね。
その方が運びが良いです。
意識を奪うものがあれば、それを淡々とスルーすると良いですね。
抵抗も突破も要りません。
「安楽でいること」が到達地点ならば、そんなものはすぐに手に入ります。手に入るという表現もおかしいですが、すぐになることができます。
「それがなれないんだ」となると、それが意識を奪うものです。
―
ある主人公的視点。
自分の無意識をラベリングしていると、
いつも通りの「自分という感覚」と「ラベリングしている自分」という感覚が出てくるかもしれません。
その場合、自分が何かに反応していたとしても、「この主人公は、ああした背景の中、この現象を捉えて、そんなふうに反応している。さあ次の展開はいかに?」というような感覚になります。
それが概ねフラットな視点です。
―
あえて振り返ってみて、本当にすべてが自我視点における「自分の力」だけで完結したのかどうか、というところを思い返してみましょう。
確かに節目節目で、意志決定をしたということはあると思いますが、それは選択程度であり、出来事は自分以外の世界の側から起こっているような感じがしないでしょうか?
その場合、さらに自由意志の面で意志決定自体も自分のオリジナルではないというふうに捉えることができます。
仮に主観感覚として「自分が決めた」ということであっても、それは「選ぶ」という程度で、よくよく考えるとさほど大したことはしていないふうにも見えます。
そう考えると、自分の意志決定など因縁における「縁」程度のことであるというようなことがつかめるかもしれません。
―
「こうでなければならない」というものは一切ありません。
ただ、罪悪感を感じないことを確認するかのように、意図的、能動的に悪事のようなことをしてはなりません。
何が悪いかということすら本来は定義できません。
しかし、自分も薄っすらと悪いとは思っていて、かつ、罪悪感を突破するためにと意図的にそれを行うことは、その行為や罪悪感自体に重要性を与えすぎています。
「なぜそんなことまでしなければならないのか?」
となります。
世間の癖として第一に、慣れて耐性をつけるということを成功法則にしすぎていること、そして次に、そうした耐える感覚、突破した感覚を、神経レベルで欲しているという変な癖があります。
そういう意味でも体育会系は害悪なのです。
―
ここで今、何が起こっているか?
何も起こっていないといえば、何も起こっていません。
何かが起こっているといえば、何かは起こっています。
言語的解釈を加えないとすれば、どのような感覚が訪れるでしょうか?
仮に言語的解釈を行ったとしても、それはこの自我が勝手に考えていることであるというふうな視点で世界を見るとしたら?
―
続きはまた。
―
そのまた続き。
「さて、この主人公はこのあといかに?」
という視点。
どんな展開がいいのかな?
それは先に結果を見ること。
展開は考えなくてもいいです。
強靭な生命としての力の意志。
それ自体は、本当は常にあります。
マイナス要因が阻害しているだけです。
およそ考えられたもの、― 検討が重ねられたもの、は嘘です。
世間的には本当ですが、本質的には嘘です。
プロセスとしての言い訳です。
―
「鳩尾の詰まり」
それは様々な思考、リアリティの高い経験が、我が身を守るために横隔膜を硬くした証。
我が身のためと、社会を優先し、自分自身を蔑ろにするような、情報に汚染された証。
それに気づかせないために、他の部位に気をそらせようとする試みに屈した証。
―
続きはまた。
その続き。
「1/無限のノイズと自我の無力」
あらゆる記憶は、無限の中のひとつの状態にしかすぎません。今の心がそれと合致しているというだけです。
そして自我は無力です。
無力であることに気づかないままいると、無力であることを突きつけるようなパターンが繰り返されることがあります。
あらゆる苦痛やつまらなさは、その向きに対する反応であり、反応以上のものではありません。
「無限の中のたったひとつ」であるということは、嘘のようなものです。
嘘ではありませんが、嘘のようなものです。
情報として「ない」わけではありませんが、「ある」ようで「ない」ようなものです。
記憶と反応がセットになっているとしても、それは無限の中の一粒です。
他にも無数のパターンがあります。
―
意識の向きを定める時、記憶を頼りにしてしまうという罠があります。
より厳密に言うと、言語的に示せるような記憶です。ビジュアルや音声の記憶ですが、言語で説明ができてしまう記憶です。
あまりそういうものを頼りにはしないほうが良いと思います。
―
自我の無力さを知ったと言えど、自己卑下に陥るというのはまた自我の内側に引き戻されます。
「私」は何かを成し遂げたことなど一度もありません。
ただ、主人公として、一種の物語の演者として振る舞っただけです。
―
「あらゆる演者」
ある人は、ある人としてある程度の定義がされていたりします。
記憶の連続性による、属性の定義です。
しかし、あの現象とこの現象は繋がっていません。
「ある物語を描写する現象の中で最適な演者として振る舞った」
というだけです。
なので、それが良いものでも悪いものでも、個人に何かの思い入れを強く持つということは少しズレています。
「連続性を持たせて美しさを際立たせる」ということのために、記憶が繋がれることがあるというだけです。
「一番受け入れやすく、一番適している人が、その役を演じた」
というだけなら、特定の誰か、特定の何かへの執著など無くなるのではないかと思います。
―
「今の状態」
今の状態は、身体の緊張と神経パターンの癖でわかります。
そしてそれは変えることができます。
戻ろうとすることもありますが、また変えれば良いと思います。
それでは続きはまた。
―
少し間が空いて続き。
「握っているものへの態度」
重要性を置いているもの、握っているもの、執著しているもの、執着していないふりをしているものへの態度として、まともに向きあうと、よりそれが強化されることがあります。なので、より「空」的に扱うと良いかもしれません。
それは、それ自体が空であることを意識で、思考で、論理で突き詰めるのではなく、象徴化して、その対極も象徴化し、自然に抽象化された状態が起こるという情報のゆらぎを観察することです。
ある良いイメージと、それを全く受け取ることのできないイメージを象徴として並べ、観察すると、それらが統合された象徴が自動で生まれます。
その情報状態こそ、執著の対象があってもなくても、いずれにしても安らぎの中にいるというものの象徴であり、それをひたすら感じると良いかもしれません。
「執著を消す」ということが難しく思えるのは、何かを存在させて、それと戦い、消し去るというような日常のプロセスへのリアリティがあまりに高すぎるからなのかもしれません。
握る「握力」を弱めることはできるが、完全に手放すことができない、という場合は、このような方法が適している場合があります。
―
「状態の感覚」
溜まったり減ったり、ということが法則性としてある場合もあれば、それ自体が「嘘」である場合もあります。
現実としてそうであるため、嘘ではないように思いますが、嘘かもしれません。
―
「自分の能力」
個としての「私」としては、僕は大したことがありません。
無能で無力かもしれません。
あまりに自分には能力があると思いすぎると、個としての自分の力だけで、切り拓こうとしてしまいます。
―
さほど意識していなくても、「他者が無能であることを確認して、安心したい」というものがどこかにあるのかもしれません。
では「他者のみが有能で、私は無能である」というような意識を持つとよいのかと言うと、それはただの自己卑下です。
―
外部にすべてを委ねるというのも、内部ですべてを完結させようとするのも、どちらも近視眼的でチグハグになるかもしれません。
おそらくもう少しで終わります。
では続きはまた。
―
続きです。おそらくそろそろ終わりになるでしょう。
無能、無力。
それは、自我としてパターン化されたもの。
頭と体に刻まれているものです。
また特定のプロセスを経て、最も慣れ親しんだ状態になるようにと、方向づけようとします。
ある時は不快感、ある時は痛み、そしてある時は焦燥。
過去ではなく、今に意識を向けることです。
あらゆる判断や反応は過去に基づいています。
その過去をくだらないと思考で考えても、体はそれに合わせようとします。
なので、手綱を握りましょう。
経験というプロセスを経なくても、それであるように。
衝動的に動く前に、いつも通りに動き出す前に。
ただ静かに座ったり、横になったりして、今に集中するようにすると、暴れ馬は、それに抗おうとします。
「他人や行動を通じて、不足を充足させる」という慣れ親しんだパターンを繰り返せと、暴れまわるかもしれません。
―
言葉やイメージを無理に繰り返しても、頭のてっぺんから四肢の先端まで届くでしょうか?
仮観においては他者に分け与えるということしか意図できないほどの豊かさを。
―
「外部の妨害要素を取り除く」ということに意識が向いたら注意するべきです。
ただ、ただ単にボタンを押すように、それを掴み取るような意図だけに意識を向けてください。
意識の向きを変えるというのはそれだけと言えばそれだけです。
考えるにしても、できない理由、できないかもしれない理由、それに備えようとする思考、なるべく確率を上げるというような弱々しい意識、そういうものに振り回されてはいけません。
そういうものに振り回されないためにと、わざわざ奮い立たせるようなプロセスを必要とする回路を鼻で笑ってスルーしましょう。
最終更新日:

