虚無感と身体感覚についてサラサラと書いていきましょう。
いかにもらしいタイトルながら、雑記らしい雑記として(雑記499投稿目)書いていきます。
日常「で?」となるようなことがたまにあります。
その時はたいてい疲れています。
「いやぁさほど大したことはしていないよ」と思っていても疲れています。そんな時は、エネルギーもうまく産生できていない感があります。
最近別に意識をしたわけではないのですが、皮膚感覚に集中していると、体が勝手に緩むというモードに入っています。つまり、触れる程度の撫でる感じだけで、体が緩んでいきます。
触れる程度に撫でることは、リンパ管を開くということになるということ聞いたこともありますし、神経を再起動させるという文脈で語られていることを聞いたことがあります。
また、慣れれば意識だけでそれらを変化させることもできますが、リアリティが薄いので、普通に撫でていくと良いと思います。
「淡い感覚を掴む」というような感じです。
それで最近また感覚的に思い出しましたが、こういう時、触れている側に意識が向きそうなものですが、「触れられている側」の方に意識を向けたり、さらに細分化して感じると、より一層緩みます。
まあ例えば手のひらを肩に置いたとして、肩で手のひらを感じるというのが第一ステップで、次に手のひらを四分割くらいしたとして、手のひら自体はすべて肩に乗っているとしても、手のひらの右上側だけを肩の皮膚で感じるというようなものです。
こういうものはたいてい物理的に押し流す、硬いものを潰して柔らかくするというようなイメージが強いですが、極限まで微細な接触や動きをした方が緩みます。その時に焦燥感を持たないことが重要です。
それで話が逸れましたが、虚無感です。
虚無感というものは、感覚でありながら、言語や想起したイメージで支えられます。
計算や論理がさらなる疲弊を生みます。
それで虚無感や不快感があるからと激しい方の刺激に移りそうになりますが、限界まで身体感覚の方に寄せてみてはどうか、と思うことがある、というのが今回触れたいところです。
ヴィパッサナー、自己観察において、
どこかしら
「何もしないというのもなぁ」というものが襲ってくることがあります。
であれば、自分の顔なりを慈しむように優しく撫でるということばかりをしてみはどうかと思ったりしたわけです。
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ただ、日常的には虚無的な感じが常にあります。
むしろ、世間的遊びに対して「何がそんなに面白いのか?」とすら思ったりしてしまいます。
言い方は悪いですが、
「よくそんなことで楽しいと思えるな」
というような白けた感じです。
ただ、これはサーリプッタとモッガラーナと同様の感想です。
シッダールタにしても同様です。
しかし論理を追っていったところで、それを極限までどうこうできるわけではありません。
しかしながら、あれもこれも体の緩みでかなり思考の角度が変わります。なので緩んで、かつ、活力に満ちた上での虚無感、つまり、「で?」というはそのままにして、身体的にはう◯このでかい感じでいるのがひとつの理想ではないかと思ったりすることもあります。
知性と理性を保ちながら、ミスターベーターで言うところの「聴診器、聴診器、城南電機」のテンションでいるということです。
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高校生くらいの時は、毎日が気怠かったですが、思い返してみると楽しかったなぁという印象がやってきます。
つまり当時は、そこそこ疲れていたのではないかと思います。
厳密に言うと、リラックスしていなかったという感じなのかもしれません。
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やはりピーコちゃん(セキセイインコ)が生きている間だったので多少マシだった、という感じもします。彼らがいなかったらもっと厳しい毎日だったのではないかと思うことがあります。
一応、養子のうさぎが亡くなってからというもの、毎日彼のことを思い出しますが、やはり彼と触れ合うということが程よく僕の中の「殺気のようなもの」を鎮火していたような気もします。
それをオキシトシンなどで語ることもできますし、そうした面について触れたこともあります。
そういえば最近、殺伐感がしているなぁと思ったら、娘の体重が抱っこ紐の限界を超えたので、おんぶ散歩をしていないということに気づきました(どこかの帰りに紐無しでおんぶすることはあります)。
言語領域から、程よく身体感覚の方にシフトチェンジしてくれるもの、それがふれあいです。
虚無感は虚無感のまま、温かい湖に浮かんでいるような、そんな感覚になります。
虚無感すらも、そのままずっとそこにいてくれてよい、というような感覚になります。
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身体的にはそのような構造になっていて、それでいて社会的にはそれが別の合理性で削ぎ落とされている、というようなことが、社会の歪みを生み出しているような感じがします。
