苦しみへの勇気

われわれは現在のままの状態で、かなり多くの不快に耐えることができる。われわれの胃はこの重たい食物に適している。ことによるとわれわれはそれがないなら人生の食事には味がないと思うかもしれない。苦痛へのよい意志がないなら、われわれはあまりにも多くの喜びを逸するにちがいないであろう! 曙光 354

「いままで一度も、特に歓喜というものを味わったことがありません」

「おそらくそれは一度も『努力の末に勝ち取った』ということを経験していないからでしょう」

こういったやり取りが二十代中頃の頃に実際にありました。

実際に「苦しんで努力した末に手に入れた」というようなことは、一度しか経験が無いかもしれません。

しかし、やることをやっていないと、学校を卒業したり、会社から内定が出たり、入社して給料をもらったり、はたまた起業して企業運営をやっていけるわけがありません。

もともとお腹が弱いですから、鈍感なタイプではありません。どちらかと言うと細かいところまで気になって仕方ないタイプです。

そういわけで、多少は気にしながら苦しんでいたような気もしますが、その後の結果が良いものであっても「勝ち取った」という気分になったことは特にありません。

急にやりだした就職活動

先のやり取りの後で、「起業してから廃業して大企業に新卒で就職することはできないが、反対に大企業に新卒就職してから、やめて起業することは簡単にできる」という妙に説得力のある提案のもと、「起業」をさておいて就職活動を急にやりだした時のことです。

その時は、単純に「自分を売り込む『営業』をしてみよう」というような気持ちでした。

しかし、短期間ですが、非常に気が重くなりました。

当時も今も「人に判断される」という事を想像するだけで、やはり心地よいものではないですが、今は特に気にもなりません。しかし今となれば笑えるものの、当時はかなりそれが嫌でした。それは自分が何かの判断基準に照らしあわせて、優れていようが劣っていようが関係なく、「人に裁かれる」ようで、非常に嫌な気分がしました。

普通営業に出るとき「判断されるもの」というのは、商品やサービスであったり、会社の信用力です。しかし、就職活動というものは、その対象が「自分」というものです。

結果的に特にいろんな企業を駆け巡ることもなくすぐに内定は出ましたが、それまでの一ヶ月半くらいの間は、生きた心地がしませんでした。面接一発で終わるのならばいいですが、SPIを含めて試験が何度も何度も間隔を空けて実施されるため、少しの間は休まる暇がありませんでした。

ある意味で苦しみの果てに「勝ち取った」内定ですが、特に喜びはありませんでした。

「ホッとした」

それだけです。

当時確かに内定を欲し、苦しみの末にそれを手に入れたのですが、特にそれほど嬉しいと感じませんでした。

「リストラされたおじさんなんかは、自分よりも辛いんだろうな」

そういうことを思っただけでした。

南風の風下で

苦しみへの勇気 曙光 354


その時期、結局不採用となりましたが、「その気になればルールを超えることができる」ということを少し感じたのが就職活動の時でした。

就職活動でもその気になればルールを超えることができる

この時期に経験した「相手の空間に飲み込まれると調子を崩す」という現象について

相手の空間に飲み込まれると調子を崩す

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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