世の中にはたくさんの芸術作品があります。それぞれ感覚チャネルという次元が異なるため一律に論じ得ない部分もありますが、音楽や絵画といったものを含めて見渡した上での至高の作品は、やはりドラえもん6巻の「さようなら、ドラえもん」であるということをずっと思っています。
「僕のもとに帰ってきたドラえもん」で触れていましたが、幼少期に出会ってからそれ以降、様々な分野においてこの作品を超えるものを探そうとはしていますが、30年以上の間未だにそれを超えるものどころか、並ぶものすら出会ったことはありません。
「さようなら、ドラえもん」というと、のび太くんの精神的成長や勇気の面が際立って語られることが多いですが、ドラえもん側の感情の動きというものも複合して描写されています。
いわば「保護者の感情」ということになりますが、そう考えると、立場役割において子供側でも親側でも共感できるということになります。そうなると、子供からお年寄りまで全てに対応していることになります。
そして不暴力・不傷害という面は逆の描写になりつつも、より狭義の意味での慈悲、つまり「mettā(メッタ―)」と「karuṇā(カルナー)」、そして自立の基礎が描かれています。そして一方、その対象者側の心の動きが映し出されています。
そして藤子・F・不二雄作品の芸術性に関しての特長は、同様の絵を数コマ描いて間と流れが描かれ、漫画独自の非言語的表現が為されていることです。
本来、嫉妬という表現とはまた少し異なりますが、こうした要素は、歴史上の様々な芸術家が嫉妬して仕方がないのではないか、というようなことを感じてしまいます。
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のび太くん側、ドラえもん側の心の動きと喜びの抽象性、より削ぎ落とされ、より抽象化された表現の中で、日常の臨場感にスッと入ってくるリアリティがあるという点などを含めて、これ以上のものはないと思っています。
「意味がよりよく伝わるように具体的に」というものでも、「具体性を削ぎ落として抽象性を」というものでもない完成度が凄まじく、「何となくすごそうだが何を言っているのかわからない」と言われてしまう近代、現代の哲学者、「結局何なの?」と言われてしまう芸術家のような臨場感のなさもありません。
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感化という面において、その人格形成やその後の人生を変えてしまうようなものというのが芸術的なレベルの高さであると思っています。
通常、人格形成と言うと言語的な理解という面が着目されやすいですが、非言語領域であっても、様々な意志決定において影響を与えるのであれば、それは人格形成への多大なる影響であると考えることができます。
芸術に感化されて「何かしらの行動をする」とか「選択のあり方が変わる」ということに関しては、「感染した芸術家に影響を受けてその分野に行く」ということでなくても起こり得るという感じです。
藤子・F・不二雄作品からの影響は、そのテーマの哲学的感覚や会話の中における言語的な理解の他、抽象性や「空白的な感覚」といったものまでも含まれています。
文学において論理的な理解、言語的思考のあり方のみならず、文体やリズム・テンポが影響されるように、感化というものは一面だけの影響にとどまるということはありません。
そうした面で考えると、ドラえもんを始めとした藤子・F・不二雄作品は、複合性が最も高く、思考や感覚、感情や直感と言ったものを全て包括し、かつ、最も臨場感が高い至高の芸術であるという感想がやってきます。
まあ結局のところ、「お前まだドラえもんなんか読んでんの?」とバスケットボールをドリブルしながら言ってきたやつとは、「やはり友だちになれない」ということです。
「さようなら、ドラえもん」を読んでいない中で言ったのならばある意味ではいいですが、読んだ上で「お前まだドラえもんなんか読んでんの?」などと言えるということであれば、人格に歪みがあると言っても過言ではないでしょう。
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「自分自身のためという理由では力が出ないが、大切なもののためであれば自然と勇気がわく」ということをも示唆しています。
そして、「自分自身のため」ということで、友情よりも成績を取り、誰かを裏切り、蹴落とし、誰かや何かを大切にもできなかった人たちが幸せになれるわけがないということをも示唆しています。
そしてそれは「行為の結果はその場で起こり、その価値はその内側で起こり、他の誰かによって支えられるものではない」ということと「道理通りに動く」ということをも示しています。
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