義務の変化

幾度と無く触れている中学生の時のお話です。義務の変化ということで、やはり義務教育における「義務」について触れていきます。

白靴下の件は幾度と無く出てきているので、既にご存じの方もいらっしゃると思いますが、さらに自分が卒業して15年以上経った現在、母校の生徒を見てみると、蛍光オレンジなどのスニーカーを履いて歩いているという実情があります。

合理性のない義務というものはたくさんあります。

特に体育会系ではそれが多いでしょう。今でも関わりたくない人種の一つです。

最近知ったのですが、年長者は年下の人の飲み代をおごるという文化があるそうです。その義務のせいか、最近出会う少し年下の人たちはおごってもらえる前提で接してきたりするということがわかってきました。

しかしそれは彼らの文化圏での慣習です。

僕には関係ありません。

掃除の義務

既に何度か触れていますが、中学生の時は年間100回以上職員室・相談室に呼び出されていました。学業成績は良かった分、担任の先生は頭を悩ませていたようです。

当時の担任の先生は、我らが地元の近くに住んでらっしゃるので、近くのスーパーなどでたまにうちの母と会ったりするようです。

最近、同級生がその先生にばったり会ったそうです。

声をかけてみると

「えっと。誰だっけ?」

と、名前を忘れられていたようです。

しかしながら、母に聞くと、先生は僕のことを未だに「史上最悪の生徒」として鮮明に覚えているそうです。

さて、掃除の義務です。

生徒が掃除をやらされるのに報酬がないということについて、その先生にツッコんだことがあります。以前にも少し触れましたね。

「汝自身を知れ」は学問の全体である

使っているのだから掃除する義務がある

ビルメンテナンスの方は報酬をもらっているのに、自分たちはもらっていない。そして、何故かそれが義務化されているのはどういうことかという質問です。

すると、「使っているのだから掃除する義務がある」

と、返してはいけないような返答をしてきました。

その義務はあなたにもある

「あなた達も使っている」

という切り返しが可能です。

当然に、そのように返しました。

教師と生徒では立場が違う。

という返答でした。

「教師と生徒は同じではないが、掃除する義務に関して教師だけが免責される正当性を教えて下さい」

というようなやりとりです。

この時も夜の八時くらいになっても担任を帰しませんでした。

儒教的な学校側は完璧なのか?

世の中ではモンスターペアレントと言われる人たちがいますが、彼らが全ておかしいというわけではないでしょう。確かに無茶な事をいう人も大勢いると思いますが、その前に学校側は完璧なのでしょうか。

その前にモンスターだったのは学校側だったのかもしれません。儒教の影響を受けた体育会系の年功思想が染み込んでいます。

「校則で決まっているから」という理由から、黒い靴下を履いただけで問題だとするのは、意味がわかりません。では、なぜ白い靴下しか履いてはいけないと校則で決まっているのでしょうか?

それに異を唱えることがモンスターだとするのはいかがなものでしょうか。

そういう側面は忘れて、文句をいう人がおかしいという論調は、やめておいたほうがいいですね。

特に私的な意志で選んだ場所でもなく、なぜか義務化されている場所ですから。

「教育の義務」の義務者

「教育の義務」といった感じで義務化されていると言っても、生徒には権利しかありません。これは教育の場にいかなければならないという義務ではなく、教育を受ける権利を行使できるように親などの保護者を筆頭に大人が配慮しなければならないというような義務であって、親や国家や社会の義務という解釈が一般的です。

子供が勉強しないからといって、「おい、教育の義務だ!」ということなんていいだしたら、後で子供がウィキででも調べてくるかもしれませんから、追々分が悪くなるという事を肝に銘じましょう。

義務の変化 曙光 339

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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