本ブログもついに十二周年を迎えることになりました。ちなみにこれで2352記事目になります。今回は、単純に十二周年というタイトルです。
祝十周年の時は2259記事だったので、この一年で100弱くらいの投稿をしたことになります。
さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。コメントを寄せていただいた方やcontactからご連絡を頂いた方、また、ひっそりと読んでいただいている方々、いつもありがとうございます。
アクセス状況
この一年でこのブログにやってきた人の数は、40,014名となっていますが、中国からの短時間アクセスがあったようなので(向こうのAIbotか何かでしょう)、それを除くと28,338名ということのようでした。
23区を市扱いにした上での市町村別アクセストップ10は、新宿区、大阪市、渋谷区、港区、横浜市、札幌市、名古屋市、福岡市、神戸市、京都市という順になりました。トップ10を構成する市・区がやや変化しました。
なお、国外アクセスの1位はアメリカで、全体のうちの2.67%がアメリカからのアクセスでした(ただAIbotもある程度含まれていると思います。中国は除外しています)。
アクセス経路としては、次の通り
- Organic Search 49.1%
- Direct 48.63%
- Referral 1.08%
- Organic Social 0.22%
- Unassigned 1.55%
- Organic Video <0.01%
自然検索が49.1%、直接訪問が48.63%という感じになっていますが、中国系のbotか何かが年月日付別アーカイブなどを直接で総当りしていた痕跡があるので比率は微妙です(蘭州市から)。
それではより私的な感じで進めていきましょう。
おじさんなりの視点
さすがに40代ともなれば、中年おじさんに分類されると思っています。
個人的には「若い=良い」とも思っていないので、抗うつもりもありません。
ただ、もしかすると「世の平均的な中年おじさんたち」とはいくつか違う点があるとは思っています。
その最たるものが、自分より年齢が下の世代の人との関係性や「下の世代から学ぶ」という点かもしれません。
中年おじさんというものは、自分の中で固定観念が強化され、不動になりつつある年齢です。
しかしながら短期的には波があるものの、中長期的に見ると下の世代の方が、いろいろと進化している部分もあるはずです。
新しい方法論が登場した時、「おじさん」は、「今のやり方の中で応用できる方法はないか?」と考えます。
しかし、若い人は、「新しい方法論」を柔軟に捉えています。つまり新しい方法論がクリアな状態からスタートしています。
で、おじさんは固定観念があるので、まっさらな視点や方法論を「けしからん」、「昔の方が良い」という議論になっていきます。こうした構造は古代ギリシャから続いています。
もちろんまっさらな視点、方法論には穴があることはたくさんあります。しかしその推進力のまま進んだ先でないと、その次の世界には繋がっていかないような、そんな構造も多々あるわけです。
ということで、技術や環境が変化しているのなら、そうしたものに馴染んだ人たちから学ばせてもらおうという姿勢は、何歳になっても必要なのではないかと思います。
頭の回転
一応睡眠負債を返しているような現状ではありますが、頭の回転という面で言うと、やはり加齢に伴い年々落ちているような感覚はあります。回転数という意味では、20代前半から半ばくらいと比較すれば確実に落ちていると思います。
しかしながら、やはり教養ともいうべきか、知識を得てフィードバックを繰り返してきた分、効率は良いので回転数の低下を補うことはできていると思います。
そんな中でAI利用をすると、さらに補えているような感じもあります。
ただ、車酔いのようなことがよく起こるので、いろいろと調べてみると、生成文の量と、それを読み込み正確性のチェックをする量がやや多すぎるようで、処理能力という意味ではやや低下しているのかなぁと思ったりします。
しかしながら、書籍と比較した場合、認知的な負荷がやや多いようで、本であっても「確実性」の保証はないものの、ある程度安心して読むことができる一方、生成文は、より厳しくチェックしなければならないというような負担があるようです。
身の回りの変化
脱厄年=僕からエネルギーを奪う人たちとの断絶という感じの構造が少なからずあります。そこで僕からエネルギーを奪えなくなった人たちは、病気になったり弱っていったり等々で破綻傾向にあります。
まあ個人的には、勝手に破綻してくれればそれで良いと思っています。それがせめてもの慈悲になると思っていたりもします。
公私ともにある程度はっきりと言ってやった方が、相手が気を取り直したりしますし、本当にロクでもないのは去っていってくれるというようなことがよく起こります。
まあそれもかつての関係性の残滓のようなもので、どんどん消滅していっています。ということで、日に日に楽になっています。
常に特に見返りというものを期待などはしていないのですが、この二年間ほど「手をかけた上に殴られる」という程度のひどさが続きました。ホームオ〇〇ートを彷彿とさせます。
「構造としては近いものがあるのかもしれない」ということで、完全に切り離したわけです。
一文字入魂
最近は、世間的にも環境的に大量の情報が押し寄せてくるため、ひとつ一つの言葉に重みがなくなってきました。
あっちこっちに思考が飛んでいてまともに一言一句を捉えようとする気もないのかもしれません。
なので、逆に一言一句を力強く置いていくような、そんなふうな日々を過ごしたいような気がしています。
本来、「さよなら」はある程度の悲しさをもたらすものではあるはずですが、そんな悲しさですらも、次々にやってくる代替物によって、ひとつも味わえないような、そんなふうな悲しさがあります。
人でも物でも、出会いや発見のプロセスが効率化されることより、その効率性が代替対象へと意識を分散させるということから起こる重みのなさが、つまらなさの一番の原因であり、それが、様々なものを歪ませ、破綻へといざなっているのではないかと思うことがあります。
これはそうした方が良い領域と、そうしない方が良い領域があります。しかしそれに気づくまでは、何もかもが軽々しいか重苦しいかのどちらかに偏ってしまうのではないかと思います。
ひとことずつに、きちんと意志を反映させるというのは、面倒ではありながら、贅沢でもあります。
「人生が」というと誇大表現となってしまうかもしれませんが少なくとも今の経験が、軽々しいものにならないように、走馬灯の材料として刻まれるように、たまにはひとつずつの言葉に、行動にトルクをきかせていこうと思います。
本当のお気に入り
そのような感じで、最近、本当のお気に入りにどれくらい出会ったでしょうか?
世間的には価値のないものでも、例えば、店先や音楽スタジオや美術館などにおいてあったチラシがなぜかやたら気に入って、こっそり2枚くらい持ち帰って、何年も大切にしていたような、そんな出会いは最近どれくらいあったでしょうか。
旅行先で見つけた名もなきキャラクターのキーホルダーを何年も大切にするような、そんな感じです。
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いろいろな人との色々な経験も、振り返ってみると何も残らなかったというような印象になります。
残ったものは、お金だったり、外に発表できる経歴だったりというような感じになって、結局そこだけしか見えなくなる気持ちも一応構造的にはわかります。
特に人と人との関係性は、それぞれの成長や環境の変化で、一番最後の思い出が「ロクでもないもの」になった場合、最終的に残ったものくらいしか目に映らないのはわかります。
そう考えると、やはり友だちはいいなぁと思います。
しかしあまりそうした関係性がない大人が、「結局、お金やポジション、経歴というものしか残らなかった」と思った時に、子どもに学歴をつけさせようとするのかもしれないと思ったりもしました。
まあ大人になって、いつまでも長年の友だちと関係性が続いているということが稀なのかもしれません。
「友だちと自転車で長旅をしても何も残らないだろう」
というような大人は、完全に枯れています。
何となく世間の論調も、誰かに勝つためとか、誰かの役に立つためというようなもので溢れているような気もします。
そうしたハウツーはそれはそれで攻略法的な感じで良いとしても、やや哲学的な「幸福論」的なものについて、独自に語ってくれる人はあまり見当たらないような気もします。
哲学者たちのそれも学術的なものの内側に閉じ込められているような、そんな気もします。
まして現代においては、既に社会的に形式化されていて、そこに向かうための方法論、というような構造が蔓延しています。
理由としては、そうしたものと向き合ったことがなく「浅いところの受け売り」というような構造になっているからではないかと思います。
より抽象化したレベルで、より自分の内側で見るということを意図的に避けているのかもしれないと思うこともあります。
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本来は、「幸福論」としてはかなり単純なのですが、単純すぎて伝えることが難解になっている面もあります。
理由は、単純過ぎるゆえにアイツの反証の隙があるからです。
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物理的、生理的レベルで言えば、意図した時に緩んで緊張がなければそれでいいんです。
意図的に緊張を楽しんでいるならそれでいいんです。
しかしそれを「どうやって?」とか「それを継続するには?」、「再現性を持たせるには?」というところで、自我が暴れまくります。
より抽象レベルを上げると、今は今の状態であって、それ以上でも以下でもなく、判断をする必要すらないんです。
物理的に考えても、減ったわけでも増えたわけでもないんです。
自分が捉える空間において、あるわけでもないわけでもなく、「どういった状態か」という程度です。
それで自分が捉えると言ったって、感覚としては「眼耳鼻舌身」においては神経がどの程度の感度で捉えているか、「意」においては、どういった情報空間をどの程度の感度で捉えているかという程度です。
どのように捉えれば、ということを考えますが、捉えようとする集中力を使って、ただのノイズだと捉えればそれで良いんです。
反応する関数が形成されていて、今、ただのノイズに反応して、その反応を自分だと思っているという程度なんです。
反応しているのは「自分」ですが、その「自分」を心が受け取っているという構造なだけです。
そしてその自分は、情報的な状態にしか過ぎません。
では、どうすれば?
となりますね。
言語を介さず「それがなんじゃい」と観察して流すのがヴィパッサナーなんです。
現状維持なりホメオスタシスがなんじゃい
世の中では現状維持バイアスなりホメオスタシス等々でいろんなことが語られています。
「それがなんじゃい」
ということです。
「それがなんじゃい。わしは寝る!」
という感じで過ごしてみるのはどうでしょうか?
そうすると、意識はもちろん神経レベルで騒ぎ出しますね。
逆に何かをやろうとするときも騒ぎ出します。
「それがなんじゃい。わしはやる!」
ということです。
いろんなリスク想定等々が緊張と共にやってきます。
それらに対して
「それがなんじゃい」
ということです。
外に原因があるわけではありません。
自動演算の反応の方に原因があります。
例えば
「うちの会社で長期休暇なんて⋯」
というのも反応です。
そんなものは、うるさい上司に嫌な顔をされることに対して恐怖が先行しているだけです。
「究極、辞める」
と思えば、そんなものはどんどん突破していくことができます。
その程度です。
たいていは極端に言うと洗脳状態にあるようなものです。
日常的に「特定の条件の空間に没入するトランス状態」にあるようなものです。
ここで極端な話をしますが、僕は「妻も娘も置き去りにして出家しても良い」と常に思っています。
だからといって「妻も娘も置き去りにして出家しても良いとおもっているならこちらへ」と誰かに言われても、そちらに行くことはありません。決めるのは僕であり、そんなものは論理構造を悪用した詭弁のようなものです。
別の側面から考えると、「僕も娘も置き去りにして家を出る自由がある妻」「僕も妻も置き去りにして家出する自由がある娘」が、普通に家にいるということに「ありがたいなぁ」と思うこともできるわけです。
しかし「ありがたいなぁ」ということを理由に「妻も娘も置き去りにして出家しても良い」というものがなくなることはありません。
世間的には様々なブレーキ要因があるでしょうが、それが洗脳だということです。本能レベル、社会レベル、様々な「しがらみ」です。
そのしがらみから脱するのが、正覚ということになります。
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それでは引き続きご愛読くださいませ。

