白と黒の先にある透明へ、ということで苦楽の両極端についてでも触れていきましょう。
まあイメージとしては「有と無を抽象化した空の如く」という感じです。白と黒の間は灰色ですが、白と黒の先にあるものは透明的であるというような感じです。
と、そうなるとイメージがつかみにくいので、まずは少し日常的な感じで進めていきましょう。
太宰治に対する評価
いつも仲良くしている士業の方と、文学についてお話したりしたことがあります。まあ単純には小説等々をはじめ、おすすめ本的なことを含めた雑談です。
まあそのお話の中で太宰治氏のかの有名な「人間失格」について触れることになりました。
すると、その方は、
「初めて読んだ時、こいつアホや!と思いました」
と語られました。
コンマ数秒の間
「…」
となりましたが、まあそういう士業の方の気持ちも一応よくわかります。
太宰ファンとしては、「何だこの野郎」となりそうな感じですし、僕としても20歳そこそこくらいの時であれば「何だこの野郎」となっていたと思いました。
ただ、そこでふと思い出したことは、「20歳までには太宰を理解できる人間にならねばならない。そして30歳までには太宰を乗り越えねばならない」というようなフレーズです。
誰が言ったことかは知りませんが、太宰治氏の作品を読んでいた当時に出会ったその言葉に「何だかよくわからないが、まあそうなんだろう」と思ったりもしました。
アドラーとの対比
で、その士業の方としては、一番好きな著作はアドラー関連のようで、アドラーを読んだときには「初めて理解者がいた」と感動したそうです。
まあアルフレッド・アドラー氏と太宰治氏は、根本的な考えがまさに両極端という感じがしてしまいます。
一応僕としては太宰治氏が先でアドラー氏が後ですが、一応両方をある程度読み込んでいたので、その士業の方の気持ちや考えもよくよくわかるところではありました。
ただ、超がつくほどポジティブで図太い感じのその方としては、太宰治氏のような「年中腹痛系」の人の感覚を理解できないのだろうなぁということで、共感等々において何かが欠落しているような気もしてしまいました。
ご本人は明るく人生を謳歌されている感じなので、特に問題はないような感じがしますが、ふと感じた「何かが欠落している」という部分が、いずれどこかで何かしらの躓きを起こすのではないか、と思ったりもしました。
ということで、一種の両輪となる徹底的な積極性と徹底的な消極性、まさに白と黒の感覚が、もう一段階先にある透明にたどり着くには必要なことであり、いずれ必然的にそのいずれもに対峙しなければならないような局面を迎える気がしたりもします。
そうでないのなら、凡夫のままという感じがしてしまいます。
快楽と苦しみの両極端が両輪に
そんなことでふと思い出したのが、やはりシッダルタです。
釈迦族の王子として、何不自由無い生活に憂いを感じ、逆に極端な死にかけ寸前の苦行までしたりしています。
何事も極端すぎるという感じもしますが、あえて極端にいくと、その限界や本質が見えてきたりもするという感じになるでしょう。
世間一般の感覚で言えば、「何不自由無い生活ならばどうして?」ということになりそうですが、結局そうした快楽なども虚しさに繋がり、その先には何もなく、やはり虚しいということに気づいてしまったという感じになるでしょう。その逆もまた然りです。
無いと求めてしまったり、その立場に立たないと、妄想が進んで期待ばかりが膨らんでしまいますが、実際にそうした立場に立つと、「こんなもんか」という感じになり、そして、「そうか、これ以上はないのか」ということにもなり、ちょっとしたことで「こんなはずじゃないだろう」ということにもなっていきます。
そしてそのうち、「なんだ、こんな感じを繰り返すだけなら、何の意味もないじゃないか」という気分にもなってきます。
その場は多少気が紛れても、ふとした瞬間には虚しさを感じてしまう、そんな感じで快楽側には答えはないということを思ってしまい、逆の苦しみ側に期待を寄せて、苦行に勤しんでみたりもしたわけです。
苦しめばカルマが消える云々もあったのかもしれませんが、ある程度苦しみが限界に近づくと余計なことは考えなくなりますし、ふとしたことが安らぎになります。
多くを求めることも無くなり、求めることから生じる手に入らない苦しみなども弱まってきます。
いわば何かにつけてハードルが下がっていくという感じでしょうか。そしてボーッとしてくるので、あまり煩いもありません。
でも何かしらやっぱり体は苦しいですし、「これも違う」ということに気づきます。
そして伝承的には、そうした苦行を捨ててしばらくした後に仏陀となったとされています。
ということで、両輪のごとく快楽と苦しみがあり、それは白と黒の中間ではなく、その先にある透明になるような感覚です。
水が沸くかのごとく人が透明になるように佛となるという感じからも透明感があります。
快楽と苦しみの間にいるのは灰色のごとく普通の中間であり、その両極端を知り、見極め、さらに先に行くという感じがいいですね。
なので、快楽にしろ、苦しみにしろ、それをハナから否定するのではなく、その中に飛び込んで、限界や本質を明らかに観る方が理に適っています。
そのどちらでもないが、それを包括するという抽象性
RGBでもCMYKでも何でもいいのですが、色の表現には端と端があります。
どのような快楽でも叶う悠々自適が白だとすれば、何をやっても苦しみしか無いのが黒という感じになるでしょう。
それでそうした白と黒の間には、灰色だけでなく多彩な色の可能性があり、できるだけ白よりにという感じでそれを目指します。その中には「個性を大切にするんだ」ということで極端な赤や青などを選ぶ人もいるでしょう。
しかしながら、それらは全て白と黒の可能性の中の一つの点であり部分です。
そのどちらでもないが、それを包括するという抽象性を持ち、白でもなく黒でもなく、可能性として全てを含むような透明、白ではない空白、まっさらな空間のような地点が最高の到達地点です。
ゼロであり全てであるようなその場所が、揺るぎない安穏を示すものとなります。
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