病人が少なくともこれまでのように、病気そのものについてよりも、自分の病気に対する自分の思想についてより多く苦しむことがないように、病人の空想を鎮静すること。― これは重要なことだと私は思う!だからそれは些細な事ではない!さて諸君はわれわれの課題がお分かりになるか? 曙光 54
「さて諸君はわれわれの課題がお分かりになるか?」というような表現をするからこそ、ニーチェは言葉足らず感が指摘されるフシがあります。しかしながら何でもそのまま「わかりやすく」というのは、対消費者の書き方であって、文学的表現の場合は、あえてわかりやすさからは逆行することがあります。ただ、やはりニーチェお得意の「察してよ!」ですね。
「病人が、― 病気そのものについてよりも、自分の病気に対する自分の思想についてより多く苦しむことがないように、病人の空想を鎮静すること」
確かにこの事は些細な事ではありません。
アランなども「考えているのではなく『悩んでいる』だけだ」とよく言います。
病気に限らずですが、本当に問題や問題の本質、解決策などについて考えたりすることなく、そのものが本当にもたらしている苦しみに苦しんでいるというよりは、ただ、「そんな自分をどう慰めるか」とか、「このままでは、あんなことになる、こんなことになる」といったようなことが頭をめぐり、自爆していることがほとんどです。
さらに、身体的な苦痛というより、その苦痛を受けた意識は、精神的な思想のようなものにも関連させて懺悔させようとします。
下痢促進着である浴衣
それが腹痛による「懺悔タイム」というネーミングの要因になっています。
なぜ腹痛はあれほど辛いのでしょうか。
論理を越える苦しみ、それが腹痛です。
最近ではほとんど起こりませんが、やはりたまに短時間の格闘を余儀なくされる時があります。
それは単純に、外泊時に浴衣しか着るものがない時です。下痢促進着である浴衣のおかげで、翌朝のお腹の弱体化が起こります。
「ゆかたビフォーアフター」では下痢促進着である浴衣を、そして、「第七日に」では水あたりについて触れました。
何度も蒸し返すようですが、やはり浴衣は許せないので、いや、浴衣というよりも浴衣しか置かない宿泊施設が許せないので改めて書きます。
宿泊施設において、浴衣、バスローブ、その他下半身をむき出しにするような部屋着のみを置かないでください。たまにハーフパンツのようなものを置いてくれているところもありますが、なぜひとまず脛を出すように仕向けるのでしょうか?
風呂あがりの汗ばみなど数分程度の話です。しかし睡眠時間は数時間単位です。
脛を冷やすことによって、内臓が冷えます。そのため風呂あがりの時は爽快に感じますが、そのまま寝ると下痢になりやすくなります。
試しにむき出しになった太ももや脛にバスタオルを数分間かぶせてみてください。
そうするとバスタオルが温かくなるはずです。
ということは、バスタオルが無い時はそれだけ熱が逃げているということです。
足をむき出しにするとその分だけ内臓が冷えます。
「塩と油を多めに入れれば美味いと感じる」ということで、客の栄養バランスよりも「美味さで顧客満足度!」と浅知恵の飲食店のように、「風呂あがりの爽快感で顧客満足度!」など、どうでもいいですから、下痢を促進させるようなことはやめていただきたい!
何のために浴衣を置いているのでしょうか?
それは外出用の衣服で寝ると固くてリラックス度が下がったり、スーツなどが皺にならないように、という一応顧客満足度向上のサービスのはずです。別に浴衣を置かなくても、そのままの服でも眠れますから、一応お客を思ってのことだと思います。
しかしながら「浴衣しか置かない」ということは、「下痢を促そう」ということになります。
おそらくそんなことに気づかない人は、大便がスルッと出るような鈍感な人たちなのでしょう。腹痛になどなったことがないのでしょう。
これは国家をあげて布教しても問題ないことだと思っています。
病気に対する思想! 曙光 54
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