愛と言えば聞こえはいいですが、真意は無報酬。愛されることなど望むことなく、ただアホウのように相手に尽くすことです。そんな大変なことはだれもしないし、やった人は変人であり偉人です。
育てる側にまわるとなんとなく感覚は掴めるものです。特に人間以外の何かを育ててみるとよくわかります。子育ては無条件に良いこととされがちですが、子育てを理由にすれば何でも許されると思っている人がたまにいます。ひどいパターンになると、順番抜かししようとしてきたりします。
そんな人に順番を譲らないどころか、大声で叱責します。まわりが顰蹙モードになっても関係ありません。なるべく人間の子供以外を育ててみると良いかもしれません。なぜなら、人間の子供は人間である以上、こちらが相手に何かを求めやすいからです。
無報酬という構図は、意外でもないですがなかなか難しいものです。
たとえば寄付を行ったとして、寄付金控除というもので所得税がまけてもらえることになっていますが、これでは多少実質的な報酬が待ち構えています。
寄付金控除を申告しなければいいのですが、寄付金控除で浮いた分をまた寄付できるという構造になっているので、金額面で言えば、一度控除を受けて還付された分をまた寄付すればいいのですが、そうなると翌年また寄付金控除の額が少し増えます(限度額に達していない場合ですが)。そんな税額の計算などをしているとたいへん馬鹿らしくなり、少し笑えてくるから不思議ですね。
もっと働くだろう
たまに、「こういうことをすれば、部下が恩義を感じてもっと働くだろう」ということを露骨にやる管理者がいますが、そんなことはすぐにバレてしまいます。そしてたいてい逆効果になります。そういう管理者はたいてい友達がいないはずです。
会社のカネで自分の人気を取ろうとしているわけですが、会社のカネは言うまでもなく全従業員が稼いだカネです。「そんなことはいいから現金をくれ」とみんな思っていることでしょう。
シモの世話
既にご周知の事実かとは思いますが、熱愛中のうるうるした瞳の見つめ合いが「愛」ではなく、もちろんシモの世話ができるかが「愛」の真意になります。せっかくシモの世話をしたのに、後に報酬を求めるようでは愛ではないでしょう。「ただ、やる」つまり”JUST DO IT”ですね。「愚痴なんか吐いちゃいけないぜ」という意味でもあります。
子供の楽しみを先取り
子供に対しては無条件に愛情を注いでいると勘違いしている人がたくさんいますが、たいてい見返りを求めています。それどころか子供の楽しみを先取りして「いい人だと思われよう」と、子供の楽しみを奪う人がいます。
子供であっても一つの人格を持っています。その人の経験はその人が作り出すべきであり、というかその人しか作れません。
最近ではカードコレクションなどのコンプリートのためにおじいちゃんがオークションで漁るということが行われているようですが、友達と一緒に自転車で探し回る旅というのもなかなか楽しいものです。
そういう機会を奪っていないか再確認が必要な時代なのかもしれません。
過去記事⇒愛は無報酬
実質的にはありがたいような援助であっても、そうした援助自体が自立の機会や意図を奪うことになり、結果「自分一人でできた」という喜びや自信を奪ってしまうことになるという構造を含んでいます。
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