師と弟子たち

弟子たちに用心させることは、師たるものの人間性の一部である 曙光 447

どういうわけか、僕には師匠というものがいません。できたらそのような人がいればいいなぁと思いながらも、どこにもそれに値する人はいませんでした。

学校における恩師や習い事の先生、職場の上司など部分的にたくさん学ばせていただいた方々はいますが、心の本質的な部分における師匠というものはやはりどこにもいませんでした。

いい師匠がいたらなぁ

できれば何日でも教えを請いたいと思いましたが、話しても一日でその人を超えてしまいます。共同作業者というものはいました。互いに思考の限界まで考えてみようという、ある意味での仲間です。いまではどこで何をしているのかわかりません。

一日でその人を超えてしまうというのは、その人の考えを理解して、その限界を見切ってしまうということです。その旨を伝えても言葉を詰まらせるだけでした。ある意味で超えてはいないのですが、もうその人からは教わることはないと思ってしまいます。そういった意味です。

では目的は何だったのか。

それは苦しみを取り除くということだけです。社会の問題を解決するというわけではありません。いつまでも苦しんでしまう心を何とかしたいというその一点だけです。

ことごとく論破

かといって、生半可な理論や、よくわからない前提は全て論破していきました。

「元気になって活き活きと生きること」、それはそれで苦しみは減りますが、温かな家庭を持って、仕事で活躍して、余暇を楽しむ、ということができたとしても、それでもまだ苦しみは残ります。

「それで十分じゃないか」と言われても、十分ではありません。なぜそのような気持ちを持ってしまうのか、というような点に触れてくれた人は、ほとんどいませんでした。

「温かな家庭を持って、仕事で活躍して、余暇を楽しむ、自分のやりたいことを叶える」、もしそれが実現しても、それを失う恐怖心は残ります。つまり実現しても根本問題は解決しないということです。

ですから、医療機関などが言うような「治った状態」「健康的な状態」というのもいいですが、それで苦しみは少ないものの、まだまだ苦しみが残り、その種を潜ませているという事実は変わりません。

「金に困らず、毎晩飲んでどんちゃん騒ぎできれば人生楽しいだろう」

という事をいう人がいますが、「違う、それでは解決しない」と言い切れます。

なぜなら、「どんちゃん騒ぎ」と言っても時間の経過のような変化があります。常に一定にとどまることなく、常に変化し続ける中で、安定的に同じ心の状態が続くわけではないからです。

そして、体調を壊して飲むことが出来ない時が来るかもしれず、また、どんちゃん騒ぎが毎度盛り上がるかも不確定で、時に飲んだ勢いで喧嘩になって楽しいどころではなくなるかもしれません。

そういう不確定事項には最初から関心がありませんでした。もし飲みたいと思ったら、「どうしてそんなことを思うのだろう?」と、自らの心の動きを観察することにしました。そこで「その理屈はおかしい」と論破することもありましたが、「どういったプロセスか」や「どういう結果が起こるだろう」なども考えながら、その時の自分の心の変化を観察しました。

世間の心理学など役に立たない

世間の心理学は特に役に立たないという旨で書庫の心理学を作成しました。少し学術的でも、それが心の苦しみを取り除くものでない限り、何の意味もありません。

「前後方向と上下では、距離の感覚が違う」ということを知って、苦しさは無くなりません。研究が無駄とは言いませんが、目的はただひとつ、苦しさを消滅させることです。ですから雑談程度にしか使えないということで、結構早い段階で見切りをつけていました。

世間で価値があるとされていても、自分に役立たないのなら、無用の長物です。自分の寝室にブルドーザーや貨物船があっても仕方ないのと同じです。

後々、大前提となっている実在、自我、自分そのものが虚像だということに気づきました。

それからは話が早いですよ。

そうなると時間すらも虚像だということがすぐに分かります。

心理学なんかの大前提になっているものを信じて、その道に行ってしまった人は、そこに気づいた時どうしていくのでしょうか。そういうことは思いましたが、そこまで気付けることはなかなかないのかもしれません。

勉強してもいいですが、役に立たないですよ。

役に立たないということに気づくために、勉強するのは結果的にいいでしょう。

大前提が崩れれば、その下層にある理論は全て崩れます。

それだけのことです。

「資格ビジネス」や「ぼったくりセミナーで話す内容」くらいには使えるかもしれません。そういう意味では役に立つでしょう。

しかし、それを元に相手の心を分析して攻略してやろうなどと思いながら利用している限り役には立ちません。苦しみを取り除くという意味では、役に立ちません。

もし役に立つとすれば、それを学んで自らの心を観察しようとした時くらいでしょう。それには特に発端が心理学である必要はありません。

師と弟子たち 曙光 447

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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