昔、人々は、行為の結果ではなくて、自由な付加物―つまり神の付加物であると信じた。これよりも大きな混乱が考えうるであろうか! 曙光 第一書 12
行為の結果ではなくて、それが「もたらされた」というような勘違いですが、どうしてそのようになるかというと、アイツにはその因果関係が理解不能だからです。
それよりも少し小さい混乱としては義務教育の混乱があります。
「みんなで頑張ったんだから成功したんだ」というようなものです。
どう転んでも失敗という解釈などありえない割に「成功したんだ!」と「夕日に向かって走っていけ」的な感動をみんなで味わおうとします。おそらくそこに寒気を感じている人も少なからずいるでしょう。
絶対にない「失敗」
どうせ文化祭などは、まず準備の段階で「成功させよう」と掲げられ、それがかなり寒いようなものでも「成功した」というふうに絶対に失敗がありません。
失敗というものが存在しないのに「成功させよう」と、盛り上げようとするのは「頑張ったから」の「結果」として、「さあみんなで夕日に向かって走っていこう」ということを肯定するためです。汗と涙、なぎらも泣くですね。
「みんなの感動、汗と涙が成功の証だ」とでも言いたげに、間にどのような失敗があっても結局成功であるという解釈をします。
ということは、失敗と成功という二元論的な判断自体がいらないのではないでしょうか?
わざわざ成功などと言わなくても、絶対に失敗とは認めないのだから、わざわざ語ることもないだろう、とすら思えるはずです。
実際に、失敗というものはどの視点から見るかによって変わってきます。基本的には失敗というものはなく、ただフィードバックを得るというだけという解釈もすることが出来るのです。
しかしわざわざ二元論化しつつ、失敗ということはありえないのに「成功させたい!」とか、「成功した!」と言いたがる義務教育的・体育会系的感動の方程式は一体何なのでしょうか。
「頑張る」も「成功」も
頑張ったからではなく、現象だけ見ても「行為を行ったから結果が生じた」という簡単な因果だけです。「頑張る」も「成功」も物質とは無関係な気持ちの「印象」にしか過ぎません。
ただ、行為をおこなったから結果が生じた、というのもアイツの中の解釈です。行為をしたから、という法則を「把握したい」という特性があります。
「把握できる汎用性の高い法則を知っていなければ不安でしょ?」という囁きです。
それが「蛇口をひねったから水が出た」くらいなら物質上の物質の法則のようなものなので、別に構いませんが、「頑張ったから」と「成功した」というものまで「法則化」しようとします。
付加物としての結果 曙光 12
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