人生は常に選択の連続ばかりです。
ほとんどの事柄は、ほぼ自動的に選択が行われているので意識することはありません。
よく「CMでよく見るから結局買ってしまう」というものもありますが、あれも無意識下での選択に近いかと思います。
知らぬ間に影響され、知らぬ間に刷り込まれ、「考える」というストレスからすぐに脱却するために、簡単に選んでいきます。
広告にはストレートに「買ってください」というメッセージを伝えるものもありますが、「なんとなくよく見る」から親近感や信頼感を得ようとする類まで、いろいろな形があります。
何度か、「本質的にいいもの」を選ぶ癖がつけば、その呪縛からも逃れることができるかもしれません。
意外となんてことない
人生で重要に思える選択の状況にあって、数々の情報を集め、状況の判断をして、はたまた刷り込まれたイメージまで組み合わせて悶々とした後に決断しても、しなくても結果に大差はありません。
体感できる時間の空間は、基本的に1種類です。
いくつかの選択肢があって、その全部の答えを体感することは、一応不可能です。
だから比較しても仕方ないといえば仕方ないのに、どうしてか選択の後悔をしてしまいます。
そんなことしなくても今に集中すればいいのではないでしょうか。
反省などする必要はありません。まあ省みるという事はいいですが後悔は無駄です。
「こりゃダメだ」と思えば、すぐにやめてしまえばいいのです。
見えていなかったことや気の迷いや認めて切り捨てる
「○○してしまったから」と思い悩んだところで、気にしているのは意外と本人くらいなものです。
一旦雇い入れてしまったから、婚約してしまったから、家を買ってしまったから、そんなことをいまさら思い悩むより、すぐに切り捨てることです。
一旦「気の迷い」があったことを素直に認めて、その時の自分の心の動きを思い返してみるのはいいことです。
そしてその時の気持ちをぎゅっと抱きしめて、さよならしてください。
他の人を変えようとする試み
もがき苦しみながらも、たいてい失敗に終わるのは他人を変えようとする試みです。
よく「いつか彼・彼女が変わってくれると信じている」
と、期待している人がいますが、たいてい無理です。
100%不可能というわけではありませんが、そもそものその思想がまずは問題です。
なぜ他人のために変わらなくてはならないのですか?
同じように他人に変われと言われたとき、あなたは変わりますか?
変わって欲しいと思うことをやめる人間に変わってほしい、とせがまれた時、そういうふうに変われますか?
これは矛盾になってしまいます。
いいところ「私は正しいことを言っている」と居直るのがせいぜいでしょう。
それは相手も同じ気持ちです。
その際に「世間の基準」を持ち出すでしょう。
しかし、世間の基準は絶対的な基準ではありません。
ある側面から見た時にそれは正当性を持ちますが、絶対的なものではありません。つまり相対的なものです。
多数決は根拠にはなりません。
人は自分の考えを攻撃されることを嫌うものです。
また、考えを押し付けられて、考え方を変えさせようとされることを最も嫌います。
さあ、どうするか?
とうことになると「さあ、どうするか?」ということになります。それにはいくつかの方法があります。
捨てる
一つは、その条件にあてはまる他の人をパートナーに選ぶことです。
使えない社員は、そのほとんどがいつまでも使えません。
その人を育てるのにもお金がかかります。
実務的な教育は、会社に責任がありますが、どうしてそんな人の心の教育にこちらがお金を払わねばならないのでしょうか?
会社ならお金というわかりやすい尺度がありますが、そうでない場合はひとまず時間と労力でしょう。
すぱっと切り捨てるのが一番いい方法です。
こちらが変わる
もう一つは、こちらが変わってあげるという方法です。
もっともっと許容量の多い、菩薩のような人になってみましょう。
ただ、その人の分まで全てやるくらいの覚悟が必要です。
おそらく相手は変わりません。
それどころか調子に乗ってくるかもしれません。
それでも尽くせるくらいの愛があるのか、という究極的な修行ですが、これは一歩間違えなくても結局相手を堕落させてしまうかもしれません。
その前に、アイツの奴隷になってないか、もう一度見つめ直す必要があるかもしれません。
「相手の思うツボ」になっているだけかもしれませんので。
洗脳する
実際は洗脳とまでいかなくても、刷り込んでいくことはできます。
ただ、相当の知識とスキルが必要になります。
そして、そんなことをして行動を強制させたところで、何が嬉しいのか、というような疑問でいっぱいです。
そもそも必要なのか?
そんなことに思い煩うよりも、そもそも必要なのかを考えてみるといいかもしれません。
なぜ必要だと思ってしまうのか、なぜ変えようとしてしまうのか、その心の動きと対話してみましょう。
相手がどうあろうが、さよならしようが、「意外となんてことない」ということに気づけるかもしれません。
そして、それに気づこうが気づくまいが、全てはフルオートマで進んでいきます。
過去記事⇒人生の選択ってやつ
最終更新日:
“そんなことしなくても今に集中すればいいのではないでしょうか。
反省などする必要はありません。”
この部分についてお聞きしたいです。
振り返ることは、阿羅漢か、少なくともそれに近い程悟りが進んでいなければ、後悔の念を伴うことも多いです。ならば、それによって「未然に」なくせる不快と、勢いを鈍らせる作用を合算したとき、なおも振り返ることは、少なくとも場合によっては実りある結果をもたらすと思いますか?また、もたらし得るならば、どのような場合においてだと思いますか?
もちろん
“ いくつかの選択肢があって、その全部の答えを体感することは、一応不可能”
なのは承知致しています。
もう一つ、以前の返答で
“言葉にはとらわれないように注意してください。”と仰っていただいたのを無下にする質問で申し訳ないのですが、
有身見がなくなると体感に明らかな変化がありますか?もしくは、悟りが進んだかを気にするのはそれに逆行しかねないでしょうか?
「振り返ること」についてですが、感情によるものではなく理性のみで捉える場合には、ただの構造の把握などになるので良いことになり得ると思います。そうした時、感情に振り回されないように今に集中すると良いと思います。
しかしながら我が事として捉えると、反応として感情が生まれやすくなっています。
ということで、客観的に理性で振り返るということをするのであれば、「我が事」として振り返るよりも、そうした出来事を友人が話してきたというような感覚で捉えてみるというのが良いのではないでしょうか。
例えば悲惨な出来事、悔しい出来事であっても、そうした内容を友人が「実は1年前…」と話してきたとすれば、それに対する声がけの内容は結構理性的だったりします。
笑って済ませたり、「同じような出来事さえ起こらなければひとまずはそれでいいじゃないか」と理性的にアドバイスできるはずです。
そのような感覚で振り返るというのは、必要以上に感情を騒ぎ立てずに出来事の構造の把握を理解するということには有効的であると思います。
有身見が無くなった時、体感的には「瞬間的にふっとなる程度」というような感想となると思います。ただ構造上、「私が感じた」というものではないので、言葉にするのは難しいという感じになっています。
また気づきの過程においての確認作業は、進みが浅い時は気になってしまうところとなりますが、想像にたやすく、「自我そのものの騒ぎによるもの」という構造をも持っています。
「確認したい」と思うことも、「確認したいと思う気持ちを抑圧する」というのも共に「我」の騒ぎです。
しかしながら、「それはそれでそういう事が起こっただけ」というような淡々とした感じになってくると思います。
ひとまず「そんな感じで思いが起こったなぁ」という確認だけにして「ということは…」というような判断や検討などはせずにいれば良いのではないでしょうか。
智慧が明確になってくるに従い、「そうしたものが今形成され、今消滅した」という確認だけで終わり、それについて考えることすら無くなってきますし、「考えることすら無くなってくる」という感覚すら無くなっていきます。
ありがとうございました。