「私が世界の中心だ!」というあの感情が非常に激しく起こるのは、われわれが不意に恥辱感に襲われた時である。われわれはそのとき、砕ける波の真中に麻痺したもののように立ちつくし、四方八方から視線を向けてわれわれを見通すひとつの巨大な眼のために、目がくらまされたような感じがする。 曙光 352
もちろん「私が世界の中心だ!」という一文から「世界の中心で、愛をさけぶ」を思い出したのですが、それはさておきましょう。
つまりはネタがスベった時に「世界には自分しかいない」と自己弁護を行い自分を擁護をしようとするあの心境です。
周りに必死に主張していたことが根本から間違っていたと気づいた時も同様でしょう。
確かに世界には自分しかいないのですが、誰かを媒介して「良い気分になろう」とするような自尊心取得のための行動をした時ならば、その嗚咽感はひどいものになるでしょう。
「助けてください!」
と叫びたくなります。
やはり「世界の中心で、愛をさけぶ」ですね。全然「さておいて」いませんでした。
そういうわけで、「世界の中心で、愛をさけぶ」ですが、映画が上映されたのは当時まだ成人したてくらいの時でした。映画を観て、中学三年生くらいの時を思い出しました。それくらいに青い感じがいいですね。
いや、やはり「世界の中心で、愛をさけぶ」はさておきましょう。
これを書いている現在、頭に熱がこもりっぱなしなのですが、頭に熱がこもるとこれくらいに錯乱してくるのだということを冷ややかな目で見ていただいて結構です。
質疑応答は、やはり少し神経をつかうので、今回はその途中にもかかわらず「特別企画 その5」にシフトしています。
「この錯乱状態で書いたらどうなるのだろう?」と言う実験です。普段ならば書かずにおいておきますが、一度くらいは良いだろうということで、書いています。インフルエンザに罹った時よりは随分とマシですが、それでも頭はフラフラです。
IMEの「ちゅうしん」
そういえば「世界の中心で、愛をさけぶ」が流行った時、「京都の中信で、愛をさけぶ」という事をKBS京都の番組でやっていました。KBSクオリティですね。
ちなみに中信こと京都中央信用金庫ですが、京都ではよく使う単語のわりに「中信」が変換で出てきません。
ちゅうしん=中信=中央信用金庫
他の都道府県でも「〇〇中央信用金庫」という信用金庫くらいはたくさんあると思うので、「『中信』くらい入れておいたらどうですか?」と、IME(インプット メソッド エディタ)に言いたくなります。
中心の次からは、忠臣、衷心、忠信、注進、忠心と続いています。
A どれも使わん
どれも使いません。なかなか使いません。「中心」の次に使用頻度の高い「ちゅうしん」は「中信」です。
中心 曙光 352
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