われわれは結局だれかに自分の最上のものを、自分の宝石を与える。― そのとき愛はもはや与えるべきものを何も持たない。しかしそれを受け取る者は、それをたしかに自分の最上のものとは思わない。したがって、与える者が当てにしているあの完全で最高の感謝の心が、彼には欠けている。 曙光 445
感謝を当てにしている時点で少し違うような気がしますね。愛情のようなものを与えれば感謝が返ってくると思っても、期待通り返ってくるかはわかりません。感謝に限らず、それが結果の類であるかぎり、何も当てにしないことです。
世の中では、感謝されることなどなど「お返しを狙って物事を為してはならない」という美しいようなこと事を言っておきながら、しっかりと矛盾していることを言っている人たちがいます。
ニュアンスとしては理解できそうなものではあるものの、論理的には結局元の木阿弥になっているような感じです。
物理的な予測と未来への妄想
知り合いの知り合いくらいに、経営塾のようなものを開催している人がいるそうです。
その人の口癖は、「与えた人ではなく、他から返ってくる」ということのようです。
「与えた人からは返ってこないが、何かをした分は他の人から返ってくる」という感じです。それは、結局見返りを期待しているので同じことです。
これには何か物理的な予測が立っており、さらにもう一つ、「未来への妄想」という要素が組み込まれています。
どんな現象にも必ず原因があります。しかしその原因は、それほど物理的に観測できるものではありません。さらに環境という要因も関わってきます。
「良い出来事の種を作るぞ」ではなく、今の気持ちのやり過ごし方です。
何か罪悪感を呑みこんで物事を行うと、後に悪い出来事が起きるというよりも、苦しい気持ちの原因にはなります。
出来事云々などどちらでもいいことです。そんな法則があろうがなかろうが、やることは同じ、持つべき態度は同じです。
言葉が足枷に
先の経営塾の人のように下手にこんなことを人に説いてしまうと、ひとつの障害が起こることがあります。
それは、かつての出来事に足を取られてしまうことです。
善悪というものの判断は、なかなかそう簡単にはできません。一般的に言われている倫理観などは、見る角度によって善にも悪にもなる相対的なものです。
言葉だけ追ってしまうと、その言葉が足枷になります。
「この行いは良いことなのだろうか?」
そういう思考がめぐります。
その思考が、実現を妨げている最たる要因だということをお忘れなく。
一番高貴なものが当て外れをするところ 曙光 445
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