最近親友がマカオタワーにてバンジージャンプをしてきたそうです。
飛ぶ前は震えが来るそうですが、飛んでからは何ともないということのようでした。
本能的な恐怖の反応は出ます。
しかし頭では一応かなりの確率で大丈夫だということはわかっています。
そんな中でも、一緒にその場に行った全員が尻込みし、彼だけがバンジージャンプを楽しんだということのようでした。
特にバンジージャンプを飛ぶ必要はありませんが、それができるかできないかというだけで人生において見えるものは大きく変わってくるような気がします。
たいていは、スプーン曲げのようなものです。
できる能力はあっても制限がされているだけということです。
普通の理屈でいうと「人の役に立ってこその商売」において、世の中で「一般的には性格に難あり」という印象が強い人でも、変に資産を持っていたりするのは単に、「平気でバンジージャンプを飛べる」という部分だけなのではないかと思います。
そういう人は、恐怖心や罪悪感を感じないような特殊な能力を持っています。世間ではお金を稼ぐので「才能」と呼ばれることもありますが、本質的には「どうなのでしょう?」という感じです。
そういう人は、人のアイデアや成果を平気で奪って何の礼もしないということを平気でしますからね。
しかし、バンジージャンプを平気で飛べる人だらけになった時、そういう人は淘汰されていくのではないかと思います。
黙っていても何かしらの礼はくるだろうと、「おりこうさん」に待っている人が、バンジージャンプを飛べたとすれば、そういう成果を平気で奪うような礼知らずの者を平気でボコボコにしたり、成果を奪い返しに行ったり、何かしらで潰しにかかるようになると思いますから。
考えても仕方がないどころか、考えれば考えるほどやらなくなる
人間の頭の特性として、「考えても仕方がないどころか、考えれば考えるほどやらなくなる」というものがあります。
できる理由が欲しい、大丈夫であるという保証が欲しいという気持ちはわかりますが、そういうものはあまり役に立ちません。
思考はそういうふうに使ってはいけません。
そういうふうにばかり使うと、様々な景色を覆い隠してしまいます。つまり、見えるはずのものが「目に映っても見えない」ということになってしまうということです。
「バンジージャンプの恐怖心を克服しよう」
ということでもありません。
そんなことは、恐怖心が起こることを認めるということで十分です。
「怖くて何がいけないのですか?」
ということです。
まあ、反応としての感情もいいじゃないか
ということで、「まあ、反応としての感情もいいじゃないか」ということになります。
「それはそれでいいじゃないか」という感じになってくると、自然に思い切ることができるようになります。
結果、すべてにおいて楽になります。