「ツァラトゥストラ」に出てくる精神の三段階、つまり、ラクダ、獅子、幼子の感じを体感的に思い出し、何が人をラクダ化させるのかということを色々と見渡してみた結果、現代においては、日常のジャンク情報が「力の感情」を阻害し、エントロピーを増大させているからではないかということを考えてみたりしました。
ラクダとは、結局、重荷を負う存在です。
何が重荷になるか?
それは、世間一般に考えられているようなものをはるかに超えて、一切の倫理的なものが含まれます。
極端に言うと、思考によるものすべてがそれに当たるとも考えられます。
で、ジャンク情報というものは、結局一貫性のない細切れ情報が断片的に与えられる環境にあるため、その情報はもちろん、その情報に影響を受けた他人との会話などでも、そのジャンク情報のカオスを浴びるというような感じになっています。
浅いところで考えれば、何かの霊長類の実験であったように「自分の声が仲間に伝わらないとボスは弱体化していく」というような「話題が合わないので、自己効力感がなくなり、セロトニン分泌が低下する」という側面もあります。
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所詮自我など、外界の情報が収束したものにしか過ぎません。
ただ、それが自然に近いレベルものだったものが、情報流入ルートが雑多になり、ジャンク情報で溢れ、カオスが生まれ、エントロピーが増大しているというような感じです。
そのエントロピー増大への対抗にかなりのエネルギーを使っているような感も否めません。
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異なる見方をすれば、Web全体のカオスが直接、あるいは他人を通じてやってきているようなものです。
他人においても、一種の統合失調のような状態が自我空間で生まれ、そのカオスが流入します。
これは「話が通じない人」がより多くなったというようなことでもあります。
相手が悪いというわけではありません。
ただ、情報状態としてそうなりやすい環境であると言うだけです。
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そのような環境のことを考えると、その環境に飲まれます。
その環境すら自作自演です。
問題は、力の感情、力の意志のようなものをどれだけ自分自身が放置してしまっているかということです。
生命としての力をどのように捉えるかというところを、置き去りにしているような感が否めません。
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ツァラトゥストラ的な、「ラクダ」と「獅子」はよく見かけますが、幼子と言うとあまり見かけません。
この幼子とは、端的にはバカボンのパパのような存在です。
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力の感情、力の感覚とは言いますが、ニーチェ的なそれは、ドラゴンボールでオーラが迸っているようなあのような感じではありません。
普通、何かしらの倫理的なもの、合理的なものがあったとしても、極論は「で?」ということになります。
この「で?」を無視するのが弱者であると、愛すべきバカ野郎のニーチェは思っていたというような感じです(ここでニーチェを根拠にするわけではありません)。
ラクダは、倫理的なものに縛られるもの、獅子は倫理的なものを理解した上で抗うもの、そして幼子は、それらを超越したもの、という感じです。
倫理的な観念があって、それを打ち消してなんとか進む、というような感じでは、獅子という感じになるでしょうか。
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で、本題ですが、そんな「倫理的なもの」を無効化することはできても、ジャンク情報によるカオスが倫理的重圧に近いような重荷としてやってきて、それを払い除けるのに力を使っていては、いいところ「獅子」のような構造になってしまうというような感じを思ったりするわけです。
意志と現象が直結しているようなあの感覚、それが曇り、濁ってしまいます。
あらゆる関連情報や環境の分析などせずに、一気に手を出すあの感覚、それをジャンク情報が邪魔しているような気がします。
まずそんな情報が「ある」というような実体感覚から逃れることです。
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誰にでも読めて、ほとんど誰にも読めない雑記。
