感動という文字を見ても感動しないように、言葉はうまく紡ぎ合わせて何とかイメージを形成しないと、感情を動かすことはできません。
しかしうまく編まれたからといって「イメージ」が生まれないということもあります。
「笑う月」の中では次のように語られています。
「日頃から言葉の操作に従事しているぼくのような場合、イメージをともなわない言葉だけの網が編まれてしまう可能性だってあるわけだ。夢を見たという表現は、もはや適切でなく、夢のなかで言葉が編まれた、とでも言い替えるべきだろう」
言葉が発端となり、言葉と言葉が編まれ、言葉と視覚的イメージが連想されて結局何かしらのイメージに繋がるということはありますが(一滴の雨のしずくが、大海の主成分であることに変わりはない)、言葉の意味するものとして、イメージが紐付いていない場合は、それを伝えることができないこともあります。
そのような感じで、言葉を使って日常の視覚的なイメージを伝えるということができない空間もあります。あるものとあるものが同時に成り立っているというような、目の前の物理では示し得ないような概念などがその代表例ですし、すぐにわかりそうでわからない人も多い「空」についても同じようなものです。
日常モードではつかみにくいイメージ
日常に適用できないと意味がないという感覚もわかりますが、日常に置き換えて表現することが難しいような概念もたくさんあります。
ただ、それらは、日常モードに合わせすぎていて見えにくいということがほとんどです。
以前、ゼロの錯覚(「この印において汝は勝つであろう。」)として少し触れていたりしましたが、例えば、「みかんがある」というのはある種正しくても、「みかんがない」というのは本来おかしな示し方です。
それは「みかんがある」とか「みかんがあった」ということを前提とした感想であり、本来は、みかんという概念は出ずに空白の空間であるだけです。
ただ、日常で言えば、家族がみかんを食べていて、「まだあるの?」と聞いたとしましょう。
まだ残りのものがあって「まだあるよ」というのはみかんがあるので正しく、もう残りがない場合の「もうないよ」も文脈から言えば正しくなります。
しかし、可食部を中心としたみかんがないということは、みかんという概念の限定をせずとも「何もない」という感じになります。「何もない」すら何かがあるを前提としているので、沈黙が正しいくらいの感じです。
家族がみかんを食べている場面に出くわしたとすれば、「まだあるの?」も出てきますが、みんなが食べていたのは5時間前で、何の痕跡も残っていない場合であれば「まだあるの?」という言葉すら出てきません。
「あるかもしれない」という推測から出てきたという感じになります。
それはそれで日常では問題もありませんが、そんな日常モードではつかめないような理はたくさんあります。
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