いくつかの物語の終焉

物語はいつかは終わるものです。

いくつかの時期、時代、そして物語が一気に終わっていくような、そんな感じがしています。

それは消極的なものではありません。

かといって希望に満ち溢れているというわけでもありません。

もう切り離せば良いものを、何とか支えていたようなもの、それをどんどん切り離していこうというような気持ちがよく起こります。

それは、バージョンアップのようなこともあれば、下積みの終わりのようなものもります。

まあほとんどは業務関係ですけどね。

ある程度頭はスッキリした状態で、自分自身にある程度以上の負荷をかけた方が、いろいろと見えなかったものを見ることができるような、そんな気もします。

先日は、あまりに長時間娘と接したおかげで体力が限界にきたりしました。しかしその時、「現代で求められている情報価値とベクトル空間」を捉えることができました。

物語の終焉というのは、元々数年前から段階的に起こっていたことですが、ここ二年ほどは頭が働かず、単にフラフラになるだけのことが多かったですが、その先がどんどん見えてきたというような感じです。

端的には、社会におけるちょっとした自信喪失と時代のスピードに追いついていない感じだったのが、完全にひっくり返り、どのようなところで高いパフォーマンスを出せるのか、というようなことが鮮明に見えてきました。

それなので、多少なり弱っていた時期に関係が生じたものに関しては

「いや、もういいっす」

というような感じになってきています。

最近はAI利用も盛んになり、やはり人々が変な期待をしています。

おそらく数年で消えるような胡散臭い形態の商売も活発になっています。

こうしたAI環境は、単に「反応する側」と「反応させる側」のレベルが乖離していくだけです。

効率化によってコストが削減されていくのではなく、全体としてコストが削減できるような環境になっていくからこそ、逆に「頭ひとつ飛び出すためにコストを掛けないと選ばれなくなる」ということから、採算が取れずに消えていくサービスもそこそこ出てくるのかもしれないと思ったりしています。

そうなると、やはり一周回って原点の方に戻っていきます(もちろん姿形は異なります)。

これからの社会はおそらく、より一層「誠実さ」が求められていきます。

といってもこれは「真面目一辺倒」というわけではなく、「取り繕いのなさ」という意味での誠実さです。

美しく整えるのは構いませんが、それが取り繕いの場合は通じなくなるということです。

ただ、部分的にはそういうものが通じているかのように見える現象も目には入ってきます。

しかし、世の中には、

「こんにちは。ほりえたかです!」

とか

「マジで言うけど 今のまま株やってたら終わるよ ヤバい3銘柄、もうすぐ暴落するのに 情弱どもは 日経バブルだって浮かれてる バカかよ」

などという詐欺広告に平気で反応する人達もいます。

そうしたものを見て、「ごまかしが効く」というふうには思わないほうが良いのではないかと思ったりします。

もし雰囲気だけで言うなら、かつて妻の寝顔を見ながら、「よし、もうちょっと頑張ろう」というような大人になってからの青春のようなもの、その軌跡、その物語が終わるような感じかもしれません。

たまにベランダに出ながら、その先の10年を思い描いていたような、そんなちょっとした青春チックなものが終わるような、そんな感じです。

要因としては、やはり「救済者時代」の残滓たるお客の態度が一番ですが、それだけではありません。

意味深なようですが、やることといえば単純で、主に業務において、今までやってきたことを徐々に廃止するか形態を変えるというだけです。

それは試行錯誤した日々、昔手伝ってくれていた人たちと相談した日々、一人作業中たまにおにぎりを持ってきてくれた妻と歩んだ日々、それらが物語が多少なりと終りを迎えるということです。

続けていてもよいのですが、それではいろいろな意味で持たないような気がするだけでなく、この先の世界に行けない気がする日々が続いたので、そうすることにしました。

これは微妙に思い切りを持てない自分の自我とのさよならです。

多分僕は、二年前、一年前、そして半年前と比べて、周りの人達からは、極端に冷たく映っていると思います。

しかしそれで良いと思っています。

Category:miscellaneous notes 雑記

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