「悩みのない人間などいない」とよく言われますが、そんなことはありません。その前に「悩み」の正体とは一体どういったものなのでしょうか。漠然と「みんな悩んでいるんだ」と思う前に、少し考えてみましょう。
生理的なストレス、つまり身体的な負荷ですが、これはわかりやすく「暑けりゃ暑い、寒けりゃ寒い」という類で、一応苦しいものです。ただ苦しいことと不幸なことを混同しそうですが、別に不幸な事ではありません。
繊細な人は悩みやすいということを聞きますが、僕は明らかに繊細な方です。細かいことによく気づいてしまいます。おかげで昔はよく悩んでいたように思いますが、それも過程だったのかと思えば、別になんとも思いません。
悩みと「傷つけられるのではないか」という恐怖心
悩みとは、おおまかには結局自分という主体が、周りの存在に傷つけられないかという恐怖心がその正体です。
馬鹿にされるのではないか、殴られるのではないか、大顰蹙を買うのではないか、食扶持を無くすのではないか、というようなことで、もっと大元をたどれば生存欲求がその根底にあります。
他の存在を自分の幸せや安心の条件にしている限り悩みはなくならない
以前から結構な頻度で繰り返していますが、他人というかいわゆる他の存在を自分の幸せや安心の条件にしている限り悩みはなくなりません。
「あの人にこういうふうに変わってもらいたい」と考える必要がないことに気づくまで、そしてそれが当たり前に思えて普段意識しないレベルにまで到達するには、少しだけ時間がかかるかもしれません。
他人のワクワクと自分のワクワクは別物
自分の経験は自分で作り出せます。
ほかの人のワクワクは自分のワクワクとは別物です。
たまたま同じようなことに興味を抱くことはあるかもしれませんが、それを永続させようとすると苦しみしか訪れません。
絶対的な決定権は自分にしかない
自分が相手を変えられるとすれば、自分も相手に変えられてしまうかもしれません。
しかし、自分の経験は自分しか作り出せないことが前提なら、相手は自分に影響を与えません。
与えようとしてくるかもしれませんが、受け入れる必要はありません。必要はありませんが、受け入れても構いません。あくまで絶対的な決定権は自分にしかありません。そして、相手の経験の決定権は相手にあるということです。
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僕は普段ゆるゆるの服を着ています。デスノートのLのような格好をしていますが、その事をつっこむ人は誰もいません。
たまにスーツを着たくなって、スーツを着ますが、必ずネクタイをします。真夏でも必ずネクタイをします。
それが礼儀云々などではなく、あのノータイのボタンラインのスカスカ感と襟元のだらしないような様に変な感じがするからです。
特にジャケットを着ているのにノータイというのが気持ち悪く、締まりがないような外観がもったいないような気がします。また、先がツンツンの革靴も履きません。さらに言うと必ず黒系を履いています。
誰に強制されているわけでもなく、礼儀も気にしませんが、気がつけばそんなスタイルになっていました。
感覚だけを頼りにしていても、結局何も問題は起こりません。
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