不死鳥が詩人に、灼熱して炭になろうとする一巻を示した。「驚くな!」とそれは言った。「これは君の作品だ!それは時代精神を持たないし、いわんや時代に逆らう人々の精神などは持っていない。従ってそれは焼かなければならない。しかしこれはよい徴候である。多くの種類の曙光がある。」 曙光 568
ここで曙光という言葉が出てきましたね。
さて、詩人と鳥です。その両方に関連したことが思い浮かべばいいのですが、「Mrベーター」の「鳥よ鳥よ鳥たちよ。丹頂鶴はさ…」しか思い浮かばないので、ひとまず詩人について触れていきます。
文学的な短歌や俳句、そして詩も良いですが、歌詞であってもセリフであっても、良いものは良いはずであり、そこには文学的価値があります。
文語体で厳密に記述することで印象の定義に対する認識のズレは防げるのかも知れませんが、口語体でないと失われてしまう印象というものも多くあります。だから究極的には口語でしか伝わらないこともあるのです。
国語の臨時教員
さて、中学生の時です。国語の先生が産休か何かで休んでいたので1年だけ臨時職として来ていた先生のことです。
国語の授業に使われるような文学作品は、大人になってから読んでみると感慨深いものがあるのですが、○玉全開の中学生の時にはその趣をエッセンスすら感じることが難しい場合があります。
そこで、臨時教員としてやってきたその先生は、深い教育論を唱えるわけでもなく、よくMr.Childrenの曲を題材にしていました。
初めて僕たちの前に立った時も、いきなりMr.Childrenでした。
「流行りの曲なら中学生にも響くだろう」
という浅い感じかなと思いつつ、普通の授業で使われているような文学作品よりは些か面白いだろうと思い、半分期待、半分嘲笑のような感じで配布物が自分の手元にやってくるのを楽しみにしました。
そこで手渡されたのは、「雨のち晴れ」。
こう言っては失礼ですが、化粧っ気のない、一見幸の薄そうな、臨時教員であるその先生を見る目が一気に変わったのを覚えています。
詩人と鳥 曙光 568
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