自己犠牲の精神からの脱却ということで「自己犠牲」について触れていきます。まず最初に自己犠牲は美徳でもなければ称賛されることでも何でもありません。そして「責任感」というようなものに翻弄されたりする必要もありません。
強迫観念のような自己犠牲を自分でも治したい、自己犠牲の状況にあるのは嫌だと思っていながら、いつまでも自己犠牲を受け入れてしまうという場合も当然ながらよくあります。
「頭ではわかっていても抜け出せない」という状況です。
あくまで文章による伝達なので全てのケースに対応できるかどうかはわかりませんが、可能な限りそうした状況を打破し、自己犠牲の精神、自己犠牲の状況から脱却するための解決策を考えてみます。
心理テーマとして「うつテーマ」に分類しておきますが、「自己犠牲」に関してはブラックベンチャー企業を含めたブラック企業で横行している概念でもあるため、そうしたものへの警鈴としての意味も込めて書いていきます。
まずは「自己犠牲」というワードにまつわる悲しい出来事から触れていきます。
「自己犠牲」と綴られたノート
「自己犠牲」
その言葉は、過労死した同級生の新入社員研修時のノートに書いてあった言葉です。
彼は新入社員研修の間に「自己犠牲が美徳であること」をマインドコントロールによって埋め込まれ、結果20代前半で過労死しました。ブラック企業の過労死事件として、とても有名な事件です。
過労死した彼の葬儀に経営者は顔を出さず、代わりに電報を送ってきたようです。
その中に込められていたものは、彼の死を「天命」と表現する言葉でした。
自己犠牲の精神を植え付け、過労死するまで人を働かせるようなブラック企業の経営者は、人の生命を何とも思っていないということです。サイコパスと表現しても良いでしょう。
「目の前の一人なら人殺しの感情が芽生えるが、その数が膨大になるとそれは統計の数字となる」
悲しきかな軍事の世界ではそんな事が囁かれていたりします。
それと同じように、ブラック企業経営者としては、部下が一人であってその人が過労死すれば自責の念も起こるかもしれないものの、数が多ければただの数値にしかならないというのが実情です。
特にその企業が大規模になればなるほど一従業員など単なる統計であり、過労死すらたまに起こるエラーや不良品、バグの扱いなのです。
自分が自己犠牲をもって取り組んだ全ては、ただの統計の数値としてしか扱われず、死を持ってしても統計の中の「バグ」くらいにしか扱われないのです。
「過労死が起こり、賠償金を支払ったとしても大量の従業員を過労死するまで無償労働させている方が儲かる」
歪んだ資本主義の末路というべきでしょう。まあ元々資本家のための主義なので、これこそ資本主義ということになるのかもしれませんが、功利主義的に多数の人間が幸せになるようにとの「合理性」が、結果多数の利益のためには自己犠牲を肯定するかのような構造を作ってしまいました。
そして、自己犠牲という概念は資本主義的合理性のために「美徳」として利用されているということになりましょう。生産力向上のためのツールとして利用されているということになります。
根本をたどれば「いかに楽をして恐怖心無く生きていくか」という都合のためということになります。そしてある人のそうした観念のために、他人であるその他の人が巻き添えを食らっているということになるでしょう。
論理で考えれば、ブラック企業の経営者のように自己犠牲を説く者が自己犠牲を行えばよいはずですが、他人に自己犠牲を強いる一方、自分は誰に対しても犠牲になる気はないという落語のようなオチになっています。
絆の確認としての自己犠牲
本格的に自己犠牲の心理的な部分に入る前にもう一つの自己犠牲の事例をご紹介しましょう。
先の例と同じようにブラックベンチャー企業によって過労死寸前まで働いていた若者の事例です。この事例では、僕が直接関わることができたので、脱マインドコントロールをしました。
その人は、ブラックベンチャーを退職し、現在は転職して公務員として働いていますのでご安心ください。
この人との思い出をきっかけに、僕は「最年少上場」という言葉に違和感を感じました。
学生ベンチャーの一員として、彼は月に300時間無償労働させられていました。それどころか交通費は自費負担だったようです。
そのブラックベンチャーの代表の号令が「最年少上場!」でした。
「何が最年少上場だ。君の名誉欲だけの話じゃないか」ということになります。
ということで、スティーブ・ジョブズのマネなどをしながら「最年少上場!」と叫ぶブラックベンチャーには気をつけましょう。
さて、彼はいきなりそうした企業(企業と呼べるものではありませんが)に自ら飛び込んだわけではなく、「幼なじみたちの集まり」でベンチャー企業ごっこを始めたのがきっかけでそうした自己犠牲の罠にハマっていたという感じになります。
いわば「絆を失いたくない」とか、「みんなで見る夢」みたいな感じで、自己犠牲を受け入れていたわけです。
そして彼には自信のようなものがあまりありませんでした。
リラックスしている時は非常に頭が回るのですが、緊張癖があり、いつも本番で実力を出せないタイプの人です。
一方、ブラック企業代表は、まるでカルト宗教の教祖のように盲目的に自信を持ち、その思い込みパワーで周りを感化できるほどの自己洗脳状態でした。
僕も数回その代表と話をしたことがあるのですが、
「あ、これはいかれるわ」
という感想を持ちました。技術的なことを知っているのか知らないのかはわかりませんが、大学生前後の人なら余裕でマインドコントロールできてしまうほどの人物でした。自信たっぷりの占い師のような感じです。
そんな感じで「最年少上場!」という言葉が、一種のアンカーとトリガーとなり、スタッフは日常的にマインドコントロール状態にありました。
おそらく最初は、絆のようなもの、みんなで見る夢、といったものに純粋に喜びを感じていたのでしょう。
無償でも働いて、みんなに貢献したいとか、みんなで何かを達成したいというようなそうした気持ちだったのでしょう。
しかし、結局は代表の「名誉欲」の踏み台にされていただけでした。
ブラックベンチャーへの脱マインドコントロール
ちなみに僕は、こうしたブラックベンチャーにマインドコントロールされた大学生などを今までに何人も脱マインドコントロールしてきました。
まあ、そうしたブラック企業の代表の人も社会全体によってマインドコントロールされていて、迷いが起こって自己洗脳状態になっているということになりますが、そうした人は基本的に放っておいています。いずれ自滅して自ら気づくことになると思っているからです。
職業選択の自由というものもいいですが、法令を無視する労働条件で人が死んでしまうようなものは職業とは言いません。何故か社会では民事扱いされ刑事的な犯罪扱いはされていませんが、僕は犯罪であると考えています。
だから「己の名誉欲のために、過労死寸前まで他人を働かせておいて、何が最年少上場だ」ということを思っています。発想が体育会系です。社会に評価されるのはいかに「世間 のお役に立っているか」であって、そんな名目などに何の価値もないのです。
まあそうした自己洗脳状態にある人たちからすれば、夢を潰しているとすら捉えられかねませんが、最近の言葉をあえて使うのなら、僕はドリームキラーなどと言われようがそれで構いません。その人達はドリームキラーどころか本当にキラーなのですからお構いなしです。バッドドリームキラーとでも呼んでいただければと思います。
某経済団体などの都合による彼らの圧力など、社会的に云々ということは、追々ということでいいので、まずは過労死してしまっては元も子もないので、今すぐにできることをやるという感じで対応しています。
ということで、同級生の死という思い出が僕にそうした行動を取らせたのでしょう。
彼に対する脱マインドコントロールは、言葉による説得という部分もありましたが、実はそんな現象はオマケであり、非言語領域で行いました。詳細はブラック企業やカルト教団に悪用されると嫌なので内緒ですが、自己犠牲の原因となっている部分を書き換えたという感じになります。
それでは、心理的な自己犠牲の精神の脱却に移りましょう。
自己犠牲の根底にあるもの
自己犠牲の根底にあるものとして、承認欲求や低い自己評価への補償という感じで説明されることがありますが、そうしたものへの個別的対処、具体的行動などによる解決という方向性は遠回りなのでやめておきましょう。
なぜなら承認欲求や劣等感というもの自体が虚像だからです。それについては、過去記事を参照していただくとして(「尊厳・自尊心と承認欲求」、「劣等感の克服と劣等コンプレックスの解消」)、ここでは自己犠牲についてのわかりやすいシンプルな構造を示していきます。
「自己犠牲が安心の体感への成功法則になっている」
という感じで捉えてみましょう。
自己犠牲の精神の原因には様々なものがあります。
「考えることが面倒なので人に指示されることのほうが楽」という「自我機能による手抜き」といったものや、先の例であったような「絆を感じたい。みんなで夢を見ることが楽しい」というようなものがあります。
そして、仕方なく犠牲になっているという構造を保つことによって「何かをやらないため言い訳」をキープしている、ということもありますし、「せっかく今まで辛抱してきたのに…」といった一種の「埋没費用効果(コンコルド効果)」が働いているという部分もあるでしょう。それは他人との関係という面もありますし、自分のポリシーなどに関する自己同一性的な面も含まれています。
ということで、「責任感を持っている自分は素晴らしい」という自己評価というものもあります。そして、下手をするとイエス・キリストの「殉教」への憧れといったものすら考えられます。そうした姿をテーマにした作品も数多くあるので可能性としては大いにありえます。
で、シンプルに「自己犠牲が安心の体感への成功法則になっている」と表現しましたが、例えば、「意志決定のストレスを回避する」ということは、ストレス回避が安心の体感への成功法則になっているということになります。
「責任感」の点で言えば、かつて「責任感があること」をほめられて嬉しかったとか、責任を果たさなかったことに対して叱られたとか、そうした経験が原因になっているという感じになります。「こうすれば体は安心を感じ、こうすれば体は危険を感じた」という体感記憶です。
そうしたある状況と体感記憶との関連性が、自己犠牲の精神を形成しているという感じになります。
そうしたものが「理屈上の正しさ」と競合し葛藤を生み出してさらに苦しんだりしているということになります。
思考と「体感記憶」の葛藤
自己犠牲の心理の構造として、思考上の「理屈上の正しさ」と体感記憶が競合し葛藤を生み出してさらに苦しんだりしているという構造があります。
「それくらいはいいのではないか?」とか「法令的には自分のほうが正しいのになぁ」といった感じで頭では自己犠牲の状況にあるのがおかしいと思っているにもかかわらず、なぜか抜け出せずにいる状況ではよくそのような構造になっています。
例えば、家事でも何でもいいのですが、あまりに体がきつくて家族に手伝ってもらいたいと思ったとしましょう。
普通に「手伝ってもらうこと」とか「代わりにやってもらうこと」をお願いすればよいのですが、自己犠牲が成功法則としてセットされている人にとっては、そんな理屈よりも体感記憶のほうが優先されます。人から論理的な正しさをいくら説明されても、意識がブレーキを掛けてくるのです。
そのブレーキの奥には、「頼りがいのある存在であること」といった評価が嬉しく、それに伴う体感が心地よいという感じの記憶をはじめ、「周りの期待」がある中、「責任」を果たさなかった経験、果たせなかった経験における「周りのがっかりした顔を見た時の体の不快感」といったものの記憶があります。
その一方、「それくらいはお願いしてもいいだろうし、体を壊しては逆に迷惑もかかる」という思考も持っていたりします。ということで体感の記憶と思考が競合し、葛藤状態を生み出しています。頭はますます混乱し、意志決定ができずに気力がなくなっていって結局「普段どおり」を選択し、自己犠牲を受け入れるという感じです。
新しい世界を見ることで原因は無効化される
自己犠牲の精神の原因には様々なものがありますが、原因を潰すのではなく、新しい世界を見るようにしてみましょう。そうしてしまえば新しい世界を構成するのに不要な「原因」は全て無効になるのです。
「新しいまとまり」つまり新しいゲシュタルトができれば以前のゲシュタルトは自然と崩壊するという感じです。基本的にゲシュタルトはひとつしか持てませんし維持することはできないので、新しい世界としてのゲシュタルトが出来上がればそれだけで全てがガラッと変わります。
自己犠牲癖のある人の特徴とか自己犠牲の原因を把握してそれに対処するということではありません。
自己犠牲をやめるにはどうすればよいか、それはとても簡単です。
「自己犠牲が安心の体感への成功法則になっている」ということを見抜いた上で、新しい世界を見ることを意図してください。
自我による警告や警報
まず、そうした成功法則を元に、現在の状況を保つことが一種の「安心」の基準となっています。だからそこから出ようとすると、自我が警告を出すのです。
「仕事辞めて食っていけるの?」
「家族から見放された後どうすんの?」
「せっかく今までやってきたのに」
「周りに誰もいなくなるよ」
「あの日の誓いはどうなってんの?結局あれは嘘だったと周りに笑われるよ」
というような感じです。
実質的には、苦しい自己犠牲の状況にあるにもかかわらず、その状況が現時点では一番安心できる状態だという感じでセットされているため、そこからはみ出すと警報が鳴ります。それは記憶を思い出すということであったり嫌な体感として起こったりします。
ということで、原因を探して対処するとか、自尊心を高めるとか、承認欲求を満たすといったようなことではなくて、新しい世界を見ることを意図することが、自己犠牲の精神からの脱却を叶える最も理想的な解決策になります。
そしてそれはよくあるような「夢」というようなものを避けてシンプルな意図にしたほうが理にかなっています。
「人に気を使わないようになりたい」といったようなものや「ブラック企業の過労死寸前社員から、上場企業の社長へ」というような具体的なものではなく、もっと抽象的なものを意図しましょう。
そうなると、
「どんな状況でも安心で常に満たされている」
くらいがちょうどいいでしょう。
「体感記憶」の臨場感を下げるやり方
まああまりに自己犠牲という成功法則からはみ出した時の警報がきつい時には、「体感記憶」の臨場感を下げるやり方などを利用してみましょう。
もし、自己犠牲の状況から脱却することを意図した時に、意識の中で「情景」という形で警告が来るのなら、その情景を当事者目線から傍観者目線に切り替えたり、情景を白黒にしてサイズを縮めてみましょう。
自己犠牲からの脱却後も己の心を制する
最後に自己犠牲からの脱却後に陥る可能性のある危険性を示しておきましょう。自己犠牲から脱却し心が晴れたからといって慢心すると思ってもみない逆の現象が起こる可能性があるからこそ、己の心を制することの重要性について触れておきます。
新しい世界が見えたところで、自己犠牲が成功法則としてセットされている状態を脱却できたとしましょう。それにより、思考と体感記憶の葛藤も解消され心が晴れたとしましょう。
しかしそこまではいいですが、人に頼むことに抵抗があった人が「人に頼んでもいいのだ」というパターンを体得すると、次に「人にお願いすること」が成功法則となることがあります。その上で「何でもかんでも人にやらせて楽をすること」が安心パターンとなる場合があるということです。
それが加速すると、最悪の場合は他人に自己犠牲を強いるブラック企業の経営者のようになります。そうなるとまさに本末転倒です。
何でもかんでも自分で抱え込まずに、他人を信頼し、時に人に頼んでみるということはいいですが、何でもかんでも人にやらせるということが加速すれば、「名誉欲のために友人を奴隷化するような人間」にもなりかねません。
歪んだ利他主義のために、つまり他人のために自分を犠牲にするのはおかしなことですが、同時に歪んだ利己主義のために他人に自己犠牲を強いるのもおかしなことであるはずです。
「人からの名誉」という虚像のために、他人に自己犠牲を強いるような構造は地獄絵図のようです。
結局何かしら条件を設定し、それが叶わないと苦しみを感じるのであれば、永久に安穏はありませんし、そこに他人の状態を含めるのならば他人に依存していることになります。
だからこそ意図する世界は、抽象的な「安穏」であるのが最も理想的です。
この世から無駄な苦しみや悲しみが少しでも無くなりますように。
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