純粋にする眼

「じゅんすいにするめ」と打てば、案の定「純粋にスルメ」と出てきました。

僕はイカが食べれません。スルメはギリギリ食べられるものの、匂い、味、食感共に全てがダメです。原因は小学校のときの給食の「イカの煮付け」です。

なお、ぼっちゃん的な事柄になりますが、料亭で出てくる透き通ったイカは臭みがないのでぎりぎり食べられます。

さて、「純粋にする眼」です。

ニーチェはこの項目で、プラトンやスピノザ、ゲーテなどが出てきた後に「天才という名前が本来的にふさわしい他の人たちは、純粋な、純粋にする眼をもっている」と綴っています。

ここでひとつ「天才」について少し触れていきましょう。

地元の天才たち

これはただ単なる郷土愛のような事柄ではありません。

実際に地元にはたくさんの天才がいます。

年齢層は問わず、義務教育の成れの果てのような人からは眉をひそめられるような人たちですが、彼らにはやはり純粋に物事を見るという才能があります。事実を純化して捉えるということです。

義務教育自体が統制のための洗脳を含んでいるため、合理性はもたらされるかもしれませんが、Mr.脳筋こと孔子の影響を受けまくったギムキョな人は、その合理性の結果は一体何のためなのかということには疑問を持たないようなタイプの人達です。

そこで事実を事実以上に見てしまうという事が起こります。

地元の天才たちには、それがありません。

それほどガラが悪いということもありませんが、他の地域から見るとやはり少し変わって見えるようです。いわゆる奇人変人の類になるのかもしれません。

本来、この世の土地は誰のものでもない

さて、極端な例を言えば、この世の土地は誰のものでもないはずです。

人間同士での取り決めで、「オレの土地だ」とか「公道だ」とかいうことになっていますが、それも人間同士の勝手な取り決めに過ぎません。

「万人による闘争状態」で勝ったものが所有権を保持している、というような学術的なことはさておき、そんなことは人間の意識の中でだけ決まっていることです。

ですから、「通り過ぎよう!」のワンカップのおじさんも別に何も悪くはありません。

「他人と喧嘩になるからやめておこう」

という意識が無ければ、なんでもできるはずです。

争いになるかは別にして、やろうと思えばどんなことでもできます。

「それはいけない」と「決まって」いても、できてしまうから犯罪も成立します。

怒りの矛先と諦めモード

誰のものでもない土地で、ところかまわず放尿をしてはいけないのは人間くらいです。

それも怒ってくるのは人間くらいです。

衛生的な問題もありますが、人間か、人間に連れられている動物くらいが叱られるくらいで、怒りの矛先が無ければ、怒っている人も諦めていきます。

例えばカラスの糞が頭に落ちてきたとしても、そのカラスを捕まえて「どうしてくれるんだ!」とは言わないはずです。

さーっと飛んでいかれれば、少し憤るものの諦めモードに入るはずです。

その憤りを明日も覚えているかは怪しいでしょう。一年後、覚えているでしょうか?

仮に覚えていれば、それは笑い話にでもなるのではないでしょうか。

一年後にそのカラスに会ったとき、また怒りが再燃するでしょうか?

仮に再燃したとしても、その時ほどではないはずです。

ここでポイントとなるのは、「純粋にする眼」です。

さーっと飛んでいかれた時に、「諦めモード」が始まります。

この諦めるというのは、物事を純化して見ていくということと、方向性は同じです。

「頭がベトベトで不快だ」

「解決するには、糞を拭けばいいんだ」

「さあ拭いてしまおう、できればどこかでさっと洗ってしまおう」

そこに「不快感を取るにはカラスに説教しなければならない」という邪魔な要素はなく、事実を純化して捉えていくということが実際に起こっています。

ここで、坊主頭ならもっと楽に不快感を取り除くことができます。頭を水洗いできてすぐに乾くのだから、長髪よりも手入れは楽です。

「せっかくセットしたのに!」という憤りもありません。

「おいおい…」という不快感は同じですが、「せっかくセットしたのに!」という余計な考えは出てきません。

そういうわけで、坊主頭にしています。

純粋にする眼 曙光 497

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語のみ