確かなデータと事実の意味

著しく自信がないのか、誰かへの言い訳が必要なのか、データに期待をしすぎているのか何なのかはわかりませんが、無駄にデータから未来を決めようとする人たちが増えてきたような気がします。

「確かなデータであっても事実の意味が違う場合を考慮する」ということを完全に無視しているような気がしています。

人間ではすべて把握できないほどのデータを集めて何かを検討してみるということもいいですが、そのデータ自体が確かな事実であったとしても、その事実の背景や意味を正確に捉えられたわけではないという当たり前のことを見落としている感が否めません。

事実の意味や背景が勝手に予測される

例えば僕はたまにドラえもんのDVDを借りたりしますが、表面上のデータを見ると「三十代男性がTV版ドラえもん1巻を借りた」ということになるのでしょう。しかし、たいていそれを分析する人たちは「子供のために借りたのだろう」と推測します。

僕の場合は自分が観たいから借りたのに、年齢からの推測で「子供のために借りた」と勝手に解釈されたりするのです。

さらにもう少し詳しく、三十代男性が三十代女性と幼児と一緒にやってきて借りたということであれば、より一層「子供のために借りたのだろう」という予測の確からしさが高まります。

しかし、その場合でも「本人が見たくて借りたのだ」という確率も必ず入っているはずです。また本人も観たいと思い、同伴者も観たいと思って意見が一致したという場合もあります。

そして借りる動機についても、楽しみたいからとか、懐かしさ余ってとか、それ以外にも古い時代のアニメーションの勉強のためにとか、下手をすればブログ記事執筆のためにということも考えられます。

そういうわけで、ドラえもんのDVDを借りたと言う事実はデータとして正しいデータですが、それだけでは本質は全然見えてこないのです。

その行動が示すものは30年前と今では違う

そこで考えてみたいのが、同じデータであっても昔と現代では意味が異なってくる可能性が高いという点です。

例えば「その行動が示すものは30年前と今では違う」と言う感じで検討してみましょう。つまり、僕が幼児だったときの時代に例えて考えてみます。

30年前にドラえもんのビデオか何かを借りたのであれば、その当時三十代の人はだいたい現役でドラえもんを観て育っている人ではありません。我が事で言えば、僕のお父さんは幼少期にドラえもんを現役で観て育ってはいません。日本テレビ版のドラえもんですら放送開始が1973年であり、馴染み深いテレビ朝日版のドラえもんは1979年からの放送開始です。父としては成人しているかしていないかくらいの時にドラえもんが始まったことになり、確かに放映はされていましたが、おそらく夢中で観たという世代ではありません。

そういうわけなので30年前にビデオを借りたというのであれば、それはほぼ確実に「子供のために借りた」ということになると思います。

しかし、それから30年たった今では、幼少期からドラえもんを観て育った人たちが借りに行っているわけです。

だからこそ動機としては「子供のために借りた」ということもあるものの、「本人が観たくて借りた」ということも大いにありえます。

スポロンの味

また、最近ではなぜかスポロンの味が変わったようです。我が家で「おかしい」ということになり、そのことをグリコに問い合わせてみると、「最近の子供の味覚は酸味を嫌うようになり、甘みを好むようになったので味を変えた」という回答が来たそうです。

ふざけてはいけません。

おそらくスポロンの購入においても、男性女性問わず自分が飲みたいから買ったという三十代の人達がいるはずです。僕の周りにも幼少期から愛好しているという人がなんだかんだ結構います。

しかし、スーパーで三十代が購入すると「幼児スポロンだからおそらく子供がいて、子供のために購入したのだろう」などと勝手に推測しているのでしょう。もちろん幼児に飲んでもらうようにというケースもあるでしょう。しかし、親子で飲んでいるというケースもありますし、別に子供がいなくても昔から好きで飲んでいる人もいます。

その「最近の子供の味覚は酸味を嫌うようになり、甘みを好むようになった」というのもどこから出てきたデータなのでしょうか?

そしてそれは信憑性のあるデータなのでしょうか?

まあそれはそれでいいですが、「スポロンマイルド」のようなものを出して様子を見るという感じではダメだったのでしょうか?

といっても、別にスポロンの味の変化が本題ではありません。

スポロンの購入においても昔は「幼児期にスポロンを飲んでいたわけではないため自分は特にほしいと思わないが、子供に与えるために購入した」ということになる可能性が高かったのでしょうが、現代では「幼少期のあの味」と言う感じで根強くファンでいた人たちも一定数いるという感じになります。

そういう感じでドラえもんやスポロンで考えてみた場合、販売実績のようなものが確かなデータであったとしても、その事実の意味や背景は、全く見えないという感じになります。

プロの目のほうが精度が高い

そういう感じなので、単なるデータというものは話半分位の感覚を持たなければなりません。

マーケットインに始まり、ビッグデータとかそうしたもので、社会をより良くなどと説きながらその実、クオリティは逆行していっているような気がしてなりません。

その裏にはプロ意識の欠如にはじまり、人間の持つ感性、プロの目に対する軽視が潜んでいるのではないでしょうか。

数字的なものを見てもわからないようなことであっても、現場に立っているスタッフの人であれば、本人がその気になれば大体の人が「本人のためなのか?子供のためなのか?」ということくらい経験で理解することができます。

ドラえもんのDVDを借りるという場合の意図の面で言えば、家族で来ていたとしても、子供がおねだりしたからなのか、父親と推測される人物が家族に向かって「ドラえもん観ない?」と聞いていたのかどうか、という点で「おそらく本人が観たかったのだな」ということがなんとなく理解できるはずです。

先日の「一番マシだったからであって支持したわけではない」でも触れていましたが、「他の商品が売り切れていて、休憩時間の都合上他の店にも行けないからこそ仕方なく購入した」ということにもかかわらず、「アイドルとのコラボレーション商品が成功した!」などと企画した人に喜ばれることはなんだか違うと思っています。

それもレジに立つ店員さんならば、「おいこれしか残ってないのかよ。まあ仕方ないかぁ」などという声を聞いていたりもするので「仕方なしに買ったのだな」ということくらいは察知することができます。

現場では本音がオープンになっているのに、それを見逃すというのは商人失格と言わざるを得ないでしょう。しかし「システムだけ組んで後はアルバイトにやらせる」ということを選んでいる人たちなので、根本的にそうした意識はないのかもしれません。

データの精度を高めるために

データに依存するならせめてデータの精度を高めるために、どういう在庫状況で売れたのかということを検討しなければなりません。

まあ大企業では既に実施されているのかもしれませんが、多種多様なお弁当の在庫がいっぱいある状況で選ばれたものと、半数以上の種類のお弁当が売り切れた後で選ばれたものでは、全く意味合いが変わってくるので、そのあたりはデータの調整が必要になるはずです。

在庫満タン状況でも他の店に行く時間がないということで仕方なしに購入したという可能性もあるので、そこで売れたものであっても90点位にしておいて、半数の種類しか残っていない中に選ばれたものは50点位に考えておかねばならないということです。

惣菜パンが売れたとしても、それはパンの中から選んだという前に「本当は弁当が良かったが、しょうもないアイドルとコラボレーションという変な弁当は買う気がしなかったので、それならもうパンでいいやと思ってパンにした」くらいの思考が働いているかもしれないということで、全体の状態から調整をする必要があります。

より精度を高めたければ、来店から商品選択までにかかった時間や店内を歩き回ったルートなどを検討しなくてはなりません。

しかしながら、全国的な大量のデータを集めるとなれば機械に頼る必要がありますが、その店舗に限定されたことであれば、レジにでも立っていればそんなことはいちいち考えなくてもだんだん感覚でわかってきます。

人間のそうした能力を軽視しすぎているような感が否めません。

結局最終的には人と人とのやり取りということを忘れすぎているような感じがします。

使えるものは使えばいいですが、それに期待し依存しすぎることのないような社会になっていけばいいなぁと思っています。


そのデータが確かなものであっても、実際の事実としての意味とは乖離している可能性があるという点もさることながら、データを集めるにあたって評価判定基準の裏をかいて恣意的に操作しているというケースもあります。それらはコンピュータを筆頭とした機械を利用していかに人間っぽく評価をしていくかという点についての混乱が影響しているのではないかと思っています。

設計者・開発者たちの「評価への迷い」

Category:company management & business 会社経営と商い

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