浦島太郎感からの脱却

ここ数年の僕は、まさに浦島太郎でした。ある程度頭が元に戻ってきた時、社会を見渡すと、「どこだここは?」というような気分になっていました。

コロナ環境やコロナ罹患、そして娘との生活とそれによる睡眠不足、母の脳出血等々、様々な要因によって頭が破壊され、一時的に世界の把握ができなくなりました。一度地に落ちたようなものです。その一部は「感染後の集中の乱れ」で触れていました。

しかしながら、そんな浦島太郎感もなくなりました。さらにいうと以前よりも数倍くらい大きくなっています。精神と時の部屋にいたようなものです。

日によるものの、ものの数ヶ月前までは、時折頭が働かない時がありました。酷暑の影響もあったのかもしれません。

せっかくの結婚記念日に妻と二人で食事に行ったのですが、言葉が出ません。何を話していいのかすらわからなくなり頭が真っ白になりました。

翌日、「そんな時くらいにもっと気が利いたことくらい話ができんもんかねぇ」と変な反省がやってきたりしました。

翌日にはその調子です。ただ、肝心の時には頭が働きません。そんな事がよくありました。

何とか治そうと色々と試みますが、以前なら通じた方法も、一切効かないんです。

禅定も作れません。

ただ常に耳の付け根が痛く(これは副鼻腔炎と洟をかむ動作によるものが大きいと思います)、頭も熱く、生きているのかどうかさえ少し怪しいような感じの時もありました。

集中力を作るとしても、一日のうちで局所的にしか作れず、ある程度の時間「集中」を使うと、後はただぐったりするだけという時もありました。

そんな状態なので、社会のことなどまったくわかりません。

しかしその一方で、いろいろと物事は迫ってきます。

以前なら5分で終わったようなことに1時間かかります。

しかも1時間の集中を作るために体を削っているような感じになり、それが終わると体、特に首から顔に痛みが走るようなことがよくありました。

これらの状況を一言でいうと、「頭が悪くなった」ということです。

全盛期を100とすれば5くらいにまで下がっていたと思います。

その原因は、コロナ後遺症的なものなのか、積み重なった睡眠不足なのか(夜泣き、夜驚症の他に、近所で新築工事ラッシュがあったという点もあります)、その両方かといったところですが、直接的には何なのかはわかりません。

伝統的な表現をすれば、現象の構成は、心(ここでは認識する働きと、意思)、業、時節、食となります。

自我を構成する「関係性」が変化し、時節や食からも相当影響を受けると地に落ちます。

集中力を高めて因縁生起を観る

ただどのような時でも、外部に原因を求めても仕方はありません。

外との関係は、自分の内側です。

ということで、最初は集中力を戻すことに専念し、集中力が戻ってきてからは因縁生起を観察して、その構造を再構築することにしました。

集中力を戻すというのは単純です。

よく寝る、体を緩める、思考の抽象度を高めるということだけです。

また、現状の現実世界への臨場感に引っ張られないようにしました。判断が起こりそうになっても、「今の状態では判断しない」ということを徹底するということですね。

これは世間的に言えば、例えば「あいつさえいなければ」と、誰かを敵視し、それを排除することで自分が楽になれるという思考が起こった時に、「楽になるのが目的なのだから、今はあいつを判断の対象外とする」というような思考の切り替えをするという感じです。

そして「『排除』という極端な方法ではない最適な方法は、今は見えないが、集中力が高まると自然と見えるだろう」という根拠のない確信を保つという感じです。

これは「今の自分には見えないが、未来の自分なら見えているだろう」ということになります。確実性は100%ではありませんが、一応論理矛盾はありません。

こういう時に、あまり過去の経験を根拠にしてはいけません。ほとんどは、「あの時はうまくいったが、別の時にうまくいかないこともあった」というようなものをほじくり返すだけですから。

そして集中力がある程度戻ったら次は自我の観察です。

関係性の緊張を観る

さて、因縁生起の再構築というのは、さほど大したことではありません。

「認識する働き」としての心とは別に、自我というもの、つまり関数の集合体としての自分、私というものは常に揺らぎながらも、何かとの関係性で構築されています。

それは、常に変化しますが、概念、観念、定義によるつながりということです。つまり、何かの「情報」との関係ということになります。

自我を構成する関係性とは、結局、情報との関係です。

「妻」であれば、妻にまつわる様々な観念や定義、その人に関する定義、固定観念のようなものがあります。

その人自身に対するものもあれば、自分が持つ「妻像」もあります。

そして、さらに関係性的には妻ですが、それ以外にも「Aさん」という情報から考えれば、「子の母」であったり、「女性」であったりと様々な別の側面があるわけです。

それらの情報の中で何かが歪んだり、何かに必要以上の重要性を置いたりすると緊張が起こります。

現実世界の現象としてもその観念に沿ったものが展開されます。

そのヒントは体に出ます。

現実世界の現象は「結果」なので、ほじくる必要はありません。

この「『私』の情報状態」を再構築するというものの方が、因縁の「因」に働きかけるものとなります。

数年間取れなかった首の付け根の詰まりが一瞬でなくなる

ということで、実例を書き記しておきましょう。

実は先日、数年間取れなかった左側の首の付け根の詰まりが一瞬でなくなるということが起こりました。

この場所は、接骨院にいって多少楽になってもまたしばらくするともとに戻っていました。

結果的にこれは何だったのかというと、

「婿殿としての緊張」

でした。

ということで、やったことは首の付け根のその場所の情報を取り出して観察し、観念を抽出して操作をしたという感じです。

「義父」との関係性が強くなりすぎていたということです。

特に普段接しているわけではないものの、妻や娘を通じてその部分との関係性が無意識レベルで強くなりすぎていたという感じになります。

強くなりすぎるとどうなるかというと、極端に言えば「義父が今着ている服の繊維」すら微弱な関係を築いてしまします。

「あ~そんなの関係ねぇ!そんなの関係ねぇ!そんなの関係ねぇ!そんなの関係ねぇ!はいおっぱっぴー!」

です。

「そんなの関係ねぇ」で「おっぱっぴー」

「そんなの関係ねぇ」で「おっぱっぴー」なんです。

「Ocean Pacific Peace」なんです(最近では「All People Happy」という定義も加わっているようです)。

「因縁」を切ると

太平洋という抽象化された広い範囲が平和なんです。

最近の定義にならうと、すべての人々が幸せなんです。

その人々には自分も含まれています。

どうしてもまた会ってしまう人なら、一旦相手に対する定義・情報を切ったり破壊して、再構築すればいいんです。

これは相手を「頼りないやつだ」という定義をしていたのなら、現実は無視して自分の内側の情報の空間で「頼りがいのあるやつだ」という定義にするということです(これは言語により行うよりも、体感を利用して無意識領域で操作する方がうまくいきます)。

ただ、「頼りがいのあるやつだというふうに変わってもらおう、そして自分は楽をしよう、安心しよう」というのは相手に依存しています。現実の相手の状態によって自分の中の定義がぐらつく要因になります。

「今認知している現実は関係ねぇ」ということです。

「そんなの関係ねぇ!」

ということは、

「執著を手放した」ということです。

すると、無明により生じる苦が生じません。

ただ、それを一つ一つやっていってもいいですが、自我というものは、自分と関係するもの、関係性を持つ情報の全てです(関係のないものはまさに「関係」がありません)。

集中力を高めていくと、自分と関係するものの集合、つまり自我そのものを「そんなの関係ねぇ!」にすることができます。

そうなると理屈の上では、「一切の執著を手放した」ということになります。

Category:miscellaneous notes 雑記

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