一般にある命令 ―の良し悪しは ―それが厳密に実行されたとして、その命令の中で約束された結果が生じるか、生じないかによって証明される。
道徳的な命令の場合は― ほかならぬ結果が見通されえないものであり、あるいは解釈しうるものであり、曖昧である―
この命令は、全く学問的価値に乏しい仮説に依存しており、この仮説の証明と反駁とは、結果からでは、根本的に同様に不可能である。 曙光 24 抜粋
毎日何かに拝んでいて、しばらくして病気が治った、と。
しかしながら病気が治ったことを根拠に「拝んだから治った」といっても何の証明になりません。また、治らなかったからといって「拝むのが足りなかった」というのも関係ありません。
騒ぐ心を落ち着かせるためだけだったようなことが、いつしかそれがすべての因果に関係する法則かのように扱われるようになりました。
現象をコントロールしようとする試み
これは結果である現象をコントロールしようとする試みです。
つまり、ドラマは撮り終わっているのに、そのドラマを見てなんとかストーリを弄ろうとしているようなことです。
それは瞬間瞬間に流れているのに、あたかもそこに永続するかのように感じてしまいます。しかも、現象も流れていくのなら、その時に感じたことも流れていきます。そんな空虚なことに一喜一憂しているだけです。
深いところにある因果関係
深いところにある因果関係は、認識できないような領域にあるのかもしれません。そしてそれをもし捉えられたとしても、人に説明するのは難しいはずというか不可能なはずです。
そんなことは、その人の中に入って、なにか現象を起こすということになります。だからこそ印象しか伝えることができないはずです。
前世での出来事がどうしたの?
たまに前世がどうのこうの言う人がいますが、仮にその前世とか、前世での出来事とかが事実だとしても、それが一体どうしたというのでしょうか。そんなことは今には関係ありません。
あるとかないとかいうことは、どちらも妄想、思考での出来事です。つまり本来は議論の対象としてはナンセンスな事柄です。その議論に決着はつきませんし、ついたとしても意味のないことです。
その時に前世がこうだから、こうしなければならない、というのがもし仮にあったとしても、それは誰にもその因果はわからないはずです。
「見てきた、感じた」といってもそれは脳の中で起こっていることです。
神格化と妄言
「それを唯一分かったのはブッダですから、その言葉を信じましょう」というのは妄言になってしまいます。「唯一分かったこと」の証明は誰にもわかりません。結局神格化したいだけのことです。
そもそもブッダが語ったことは宗教ではありません。その先に「拝めば○○如来に救われる」と言い出した頃から勘違いされて宗教化していったようなもので、本来はそういう類ではありません。
覚者というだけで、いちおう歴代の阿羅漢の中で元祖と言われいるようですが、十大弟子にも「君らも阿羅漢ですよ」と言っていたようです。
そこには一応教えた教えられた側という経緯はあったので弟子となっているだけで、ただ、「君たちも阿羅漢です」といいました。
儒教化するな、体育会系を持ち込むな
それを「やっぱり師匠だからゴータマの方が上で、彼が認めなければならない」というのは、体育会系や文化と称する体育会系思想の「○○道」の世界の方の発想です。
勝手に儒教化しているだけで、元々上下も同等もありませんし、そうした相対化や承認を欲するというような条件化を無くしていくのが正しい道であるはずです。
同等という概念
人と比べるということは、上と下だけでなく「同じ」というふうに思ってしまうのも「比較だ」ということはあまり語られません。
だからこそ世間では「あなたとわたしは同じです」というような標語がよくあります。
しかし、分離と比較という概念がなければ、同等という概念も生まれません。
ということで、「同等だと思う」ということの裏には、分離と相対化・比較というものが前提として置かれているはずです。
君たちも阿羅漢です
「君たちも阿羅漢です」という言葉には「僕と同じ」というような要素は入っているようで、入っていません。
「認めてやる」というようなことでもありません。
ただ、事実を述べているだけです。
命令の証明 曙光 24
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