カテゴリー別アーカイブ: 第一書

曙光(ニーチェ) 第一書 曙光(ニーチェ)全記事一覧

ローマに対するキリスト教の復讐

おそらく普遍の勝者を見ることより以上に疲れるものはないであろう。 曙光 71 序 普遍の勝者を想定する場合、社会的な横並び目線で考えることは避けなければなりません。それはいずれ自惚れや欠落への恐怖心、もしくはルサンチマンを発動せざるを得ないからです。 同じような年齢の人同士ではよく比較なんかが行われます。先日もどこかで書きましたが、やたらとランキングが気になるのはそうしたものの最たるものです。 そして勝敗を絶対的に考える場合でも、例えば他人を無視して自分だけで考えていく場合でも、過去との比較、過去の記憶のようなもの

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粗雑な知性は何に役立つか

「粗雑な知性は何に役立つか」ということで、今朝ふと思いついたことを書いておきます。 あくまで印象ですが、世間では頭の良さが上手く生きていくことにプラスだと思われていますが、どうも頭の良さは関係なさそうな感じのこともたまに見受けられます。 そこで頭の良さは、全く関係ないのかということにもなりそうですが、先日イニシャルDの藤原文太(主人公の父)が何気なく言っていたことを思い出しました。 当然のことなのですが、足回りのセッティングはパワーによって変えていかねばならないということです。 粗雑(そざつ)とはつまり、粗く雑であ

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模倣できない

音楽を文学に変えたり絵画に変えたり、ということが稀に芸術の分野では起こります。 音楽をベースに音楽を作るとなると、よほどのサンプル数と洗練がない限り、似たり寄ったりな感じになってしまいますが、異なる次元で表現してみると、普通はあまりわかりません。 で、モロに音楽を文章で表現するのは難しいというような人がいますが、おそらく音楽と文学と両方に精通している人が少ないだけで、フタを開けてみればそんなこともないような気がします。 にわか趣味では大雑把にしか捉えられない 五感と意識のうち、だいたいどれかに特化するのが普通で、さ

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最初のキリスト教徒

聖書の中には、最も野心的で最も厚顔な魂が備わり、また、抜け目がないと同様に迷信的でもある頭の持主である人の歴史、使徒パウロの歴史もやはり書かれているということ、― 若干の学者は別としても、誰がこれを知っているだろうか? ― パウロの書面を「精霊」の啓示として読むのでなく、われわれのあらゆる個人的な危機を考えないで、誠実な、そして自由な自分の精神で読んでいたなら、真に読んでいたなら、― 千五百年の間そのような読者は誰ひとりいなかった―、キリスト教もまたとっくの昔に終わっていたことだろう。 曙光 68 一部抜粋 あらゆ

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信者の値打ち

自分が信仰されることに重点をおき、この信仰に対して、だれにでも― たとえ十字架上の犯罪人であっても― 天国を保証する者は、恐ろしい絶望に苦しみ、あらゆる種類の苦業を知った者に違いない。そうでなければ、彼はその信者をそんなに高く買うことはしないであろう。 曙光 67 曙光の一書は、宗教絡みが多いですね。 信者の値打ちということで、催眠商法のようなものについてでも書いていきましょう。催眠商法の現場に潜入し、その実態を垣間見たことがあるので、その時の様子についてです。 催眠商法は、SF商法なんてな呼ばれ方をすることもあり

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幻想能力

中世全体を通して、最高の人間性本来の、また決定的な特徴とみなされたものは、人間は幻想― すなわち、ひどい精神的な障碍!― の能力があるということであった。 曙光 66 序文 幻想能力ということで、20歳位のときですが、小説を読んで横になり、うとうとしてそのまま眠りにつくとすごく夢の中が楽しくて仕方ありませんでした。 この現象を取り扱う際、哲学的思索の中で考えたことと言えば、現実を過ごしても夢の中で過ごしても、いずれにしても「情報を感じているだけだ」とふんわり思っていたため、どうせなら一生寝て過ごしたいと思っていた時

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バラモン教とキリスト教

力の感情のための処方がある。第一に、自制することができる人々、それによってすでにある力の感情に精通している人々に対して。第二に、まさにこの感情が欠けている人々に対して。第一の種類の人間はバラモン教が世話し、第二の種類の人間はキリスト教が世話した。 曙光 65 この部分は、全体像が掴めればわかるような話ですが、予備知識無しでは紐解くことが難しいですね。書いている内容共々、こういうところがすごくニーチェっぽく感じます。ちなみにバラモン教と言うものはなく、便宜上の定義です。 まあよくスピリチュアリズムなんかで使われるよう

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絶望する人々

何かに絶望して、絶望したままだと、また絶望を味わうような現実が展開されていきます。 絶望とか希望とか願望なんてなものは、アイツの演算結果であって、本来は存在しないものです。 絶望は期待への諦め、自分が望んだとおりには進まないという状態を体感した時にやってきます。 ということで普通、絶望の手前には何某かの希望や期待、願望があったはずです。そして、予測があり、予測通りにはいかないであろうことが確定したと頭で考える時に起こります。 重要度の高さと絶望感 しかしながら世間一般で思われているような絶望は、絶望の極みではありま

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隣人憎悪

他人が自分自身を感じるとおりに、われわれが他人を感じるとすれば― ショーペンハウアーが同情と呼ぶもの、そしてもっと正確には、苦しみをひとつにすること、共に苦しむことといえるものだが―、他人が自分自身を、パスカルのように、憎むべきものと感じるときには、われわれは他人を憎まなければならないであろう。 曙光 63 前半 隣人憎悪ということで、だいたいトラブルのもとになる隣人についてでも書いていきます。 以前、共◯党の町内会長に、家の横をゴミ置き場にされかけたことがあります。 「お互い様!」と言いながら、自分の家の前にはゴ

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宗教の起源について

事物について自分自身の意見をどうして啓示として感じることができるのか?これは宗教の発生の問題である。 曙光 62 序 宗教の起源は、埋葬やシンボルの登場、自然信仰、岩石信仰(巨岩信仰)などなどといったところですが、そうした原始的なものから、文化社会的な都合で妄想されてきたものがほとんどです。 理性では理解できないモノへの畏怖や未知のものへの恐怖を筆頭に、何かしらの感情、元を辿れば生存本能的な恐怖心が発端となり、妄想でそれを埋めるという事がなされてきたという感じでしょう。 本能的な恐怖心は残りつつ知能が発達したために

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必要な犠牲

「何かを成し遂げるためには、何かを犠牲にしなければならない」 はい。体育会系ですね。 ということで、特に何かを成し遂げなくてもいいですし、何かを犠牲にすることもありません。犠牲がないと何かを手に入れなれない、というようなことを思う必要はありません。 必要な犠牲ということで、何かのためには、何かしら犠牲が必要であるという様な論調がよくあります。 犠牲が必要だとか、必要悪だとかそういった類のやつですね。 それは本当なのでしょうか? 犠牲の必要性を説くために、すぐに有名人を出して犠牲を美徳化しようとします。客観的に見た感

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あらゆる精神は結局肉体的にあきらかになる

ある程度の年齢になると、「自分の顔に責任を持て」なんてなことが言われることがあります。 まあ確かに普段どんな表情をしているかによって、顔の形なんかは変わりますから、それも確かにそう言えることでしょう。 目元や口なんかは顕著に出ますね。そしてあとは脂ぎり方です。 Z会は概して「なぜかいつでも脂ぎっている」という特徴があります。体型は関係ありません。概ね頭や顔が光り輝いています。 さて、光り輝くという点について、肌艶を良くしようと、肌そのものにベタベタ塗る人がいますが、こうした点については、そんなことをするよりも腹を鍛

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清涼飲料としての誤謬

これはもう清涼飲料水について書くしかありませんね。 一番好きな清涼飲料水は、コカ・コーラが稀に限定発売するバニラコークです。次に沖縄バヤリースのサンサン(サンサントップクリームソーダ)です。 で、ここに挙げたものは何だか限定品ばかりなので、限定ではないものを挙げておくとウィルキンソンのジンジャーエールなんかが好きですね。たいてい酒屋にしか置いていませんが、酒なんかで割るのがもったいないですよ。 それとJT飲料の爽快ビタミンですね。 そして安定のポカリスエットです。これは今でも出張の際には900mlを常備しています。

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キリスト教と感動

キリスト教の中から、哲学的に反対する大きな民衆的な抗議をも聞きとることができる。古代の賢人たちの理性は、人間に感動を思い止まらせた。キリスト教は感動を人間に再び与えようとする。 曙光 58 前半 「キリスト教と感動」ということで、またまたニーチェの好きなキリスト教系の話題です。たいていニーチェがキリスト教のことを語る時、イエスのことではなく、パウロ以後宗教化されたキリスト教のことを指していることがほとんどです(最初のキリスト教徒)。 キリスト教徒、特にキリスト教系新興宗教・カルト宗教においては「新約聖書に書いてある

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恐怖が変われば、安全も変わる

幾度となくお伝えしてきた「白い靴下事件」の舞台、我が母校が今年に入ってからメディア取材を受け、僕の後輩に当たる中学生たちが写真に映っていました。 その時見たものは「蛍光オレンジの靴」です。 こうしたように常識など、どんどん変わっていくものです。 さて、「恐怖が変われば、安全も変わる」です。 状況が変われば恐怖や安全の定義も変わる 状況が変われば、恐怖や安全の定義ももちろん変わってきます。 昔どこかで書きましたが、起業した人とそうでない人にはひとつの区切りのようなものがあります。 それは、ある種の社会的な観念を越えた

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自由精神の背教者

一体敬虔で信心堅固な人間に対して嫌悪の情を抱いた者があろうか?むしろわれわれは静かな尊敬の念を抱いて彼らを注視し、このすぐれた人間たちはわれわれと共通の感じをもたないという遺憾の念は抱くけれども、彼らのことを喜びはしないか?しかし、かつてあらゆる精神の自由をもっていたのに、結局は「信心深く」なった人に対する、あの深刻で、突発的で、理由のない反抗心は、どこから由来するのであるか? 曙光 56 序 自由精神が語られる上では、自由意志の有無が哲学的な話題となりますが、根本的に自由意志はないと思っておいたほうが賢明ですし(

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「道。」

いわゆる「近道」は、いつも人類を大きな危険に導いた。そのような近道が見つかった、という福音に接すると、人類はいつも自分の道を離れ― そして道を失う。 曙光 55 毎度のことながら「道」という言葉を見るとどうも松下幸之助氏を思い出してしまいそうになりますが、それはさておきましょう。 ただひとつの道 昔からよく「近道を選ぶとえらい目になる」というようなことが色んな所で囁かれます。 しかしながら、それは横着をするなという戒めのようなもので、効率のよいやり方を模索することは、非常に険しくリスクも伴いつつも、人を成長させるも

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病気に対する思想!

病人が少なくともこれまでのように、病気そのものについてよりも、自分の病気に対する自分の思想についてより多く苦しむことがないように、病人の空想を鎮静すること。― これは重要なことだと私は思う!だからそれは些細な事ではない!さて諸君はわれわれの課題がお分かりになるか? 曙光 54 「さて諸君はわれわれの課題がお分かりになるか?」というような表現をするからこそ、ニーチェは言葉足らず感が指摘されるフシがあります。しかしながら何でもそのまま「わかりやすく」というのは、対消費者の書き方であって、文学的表現の場合は、あえてわかり

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良心的な人々の悪用

つい先日喫茶店に行った時のことです。何やら思想団体のような団体が、デモ行進について会議をしていました。といっても若い人たちです。京都といえば昔からその気が多いのですが、やはり例に漏れず群れたいだけのB層でした。 耳を欹ててみると、「デモ行進中の差し入れに感動した」ということを女性が語っていました。しかしながら、自分たちの代弁者である思想団体に差し入れをするくらいたやすいことです。 良心的な人々の悪用として行動と思想の内容との無駄な関連付けについてでも触れていきます。 行動と思想の内容 「差し入れ」という善意・良心的

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新しい魂の医者はどこにいるのか?

慰めという薬は、それによって人生が、現在人々が信じているあの苦しみにみちた根本的な性格をはじめて手に入れるようになったものであった。人間の最もひどい病気は、彼らが病気にうち勝つことから生じた。 曙光 52 前半 今まで一度も入院はしたことがないのですが、ちょくちょく身体がおかしくなることがよくありました。 特に胃腸です。毎年このシーズン、夏が終わり秋が差し掛かる頃の9月上旬から中旬は、胃腸に激しいダメージの来るシーズンです。十代の頃に二回ほど十二指腸潰瘍になっています。 しかしながら潰瘍よりも、便秘との格闘の方がし

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われわれがやはりそうであるとおり!

「われわれ」といっても男性限定ですが、われわれ男性はやはり男性である限り、超えなければならない壁というものがあります。 ○玉との主従関係ですが、その点については何度も触れています。 それは非常にハードルが高いのかも知れません。 そういうわけで、今回は「まずは義務教育程度のモテテクから脱しよう」というテーマでお送りしていきます。 Z会と非Z会については「Z会と非Z会」をご参照ください。 義務教育程度のモテテクから脱しよう さて根本問題ですが、「義務教育程度のモテテク」というのは一体何なのでしょうか。 それは、「足の速

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陶酔への信仰

信仰という言葉を見るとすぐに「それは宗教的な部類に入るから自分には無関係だ」という反応が起こるでしょう。たまに無宗派だと言っても、「それは無宗派という宗教だ」という人もいますから、やってられませんね。そんなにカテゴライズしたいのでしょうか。 そんな人には「科学主義という一種の宗教に属していて、その柵からしか物事を見ることが出来ない錯覚の内にいるのだ」、と言ってあげてください。 科学と言っても一般に思われている理科や自然科学だけではなく、人文科学や社会科学というものがあります。その時の科学を思い浮かべればすぐにわかる

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新しい根本的な感情

われわれは決定的に無常であるということ。― 昔、人々は自分が神の血統であると示すことによって、人間の栄光の感情にたちいたろうと試みた。これは現在では禁じられた道になった。(中略)そこで現在人々は反対の方向を試みる。人類がその方へと向かってゆく道を、人類の栄光および神との親類関係の証明に奉仕させようとする。ああ、これもやはり無駄だ!(中略)生成は過去のを自己の背後に引きずっていく。なぜこの永遠の演劇の中で、ある小さな星と、さらにまたその上の小さな類にとって、例外がなければならないのだろう!そのような感傷をすてよ! 曙

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「汝自身を知れ」は学問の全体である

あらゆる物の認識の終わりになってはじめて、人間は自己自身を認識したことになるであろう。なぜなら、物は人間の限界であるにすぎないからである。 曙光 48 「汝自身を知れ」とぱっと見ると、「まずは自分を知ろう」というよく就職カウンセリングでありがちな自己分析のようなことをしか思い浮かばないと思いますが、一応これは古代ギリシャの神殿に掲げられたものです。 格言は短文であれば短文であるほど、たくさんの解釈ができます。理屈上は、文は長いほどひとつずつの単語の定義を解釈していけるので、長文のほうが解釈の幅は広がりそうですが、簡

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言葉がわれわれの妨害になる

言葉に力を与えた時、というよりも意識的無意識的問わず「力があると認めている」時、言葉は力のようなものをもちます。 それが「アイツ騙し」であり、宣言効果であり、アファメーションと言われるものです。言葉を繰り返すことによって、その言葉の影響を利用しようというものです。それは実際の力というよりも、擬似的な力です。 特に「ポジティブな言葉を使おう」という場合、目の前の現象の属性をポジティブなものに解釈するようにフィルターを少し変更するような力です。 言葉によってフィルター変更する 本来無属性の現象を、経験の記憶と恐怖心のフ

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