支配する

ある者は、支配欲からして支配する。他の者は、支配されないために支配する。― 後者にとっては、それは二つの悪の中で小さい方の悪であるにすぎない。 曙光 181

支配と被支配について考えたわけでもないのですが、世の中の大半の人は、支配されたいという側にいます。おそらく9割以上でしょう。

それは性欲動的なものなのか、意識の中の刷り込みなのかはよくわかりません。

まあ支配する側と支配される側をよくよく観察すると、支配する側のほうが色々と目配りも気配りも必要になります。つまり世話や管理が大変だということで、想像よりも手間がかかるという面を持っています。

社会の中でよくある「管理者と部下」という構造一つ取ってみても、数の比率でいえば管理者に対して部下がたくさんいるような構造になっています。

実際の組織の構造もそんな感じですが、もこうした支配・被支配の関係において、被支配側の方が何かと楽という感じになっているため、結局属性的には被支配者の方が圧倒的に多いという格好になっています。その理由は単純で責任や意志決定などの面で、委ねている方が楽であるからです。

以前書いたように、起業家みたいな人が「あなたも起業すればいいじゃないですか」みたいなことを言ったとしても、それが大半の人に受け入れられない理由として、単なる「マインドブロック」みたいなものだけではなくて、本能レベルで被支配側でありたいというDNAレベルの選択があるのかもしれません。

動物の世界でもだいたいボスは一匹だけ

考えてみれば、動物の世界でもだいたい支配者であるボスは一匹だけで、あとは支配される側、闘争に負けたかつてのボスは群れから外されるというのが普通です。

オスであっても自分自身が圧倒的に力が不足していると自認しているのならば「群れから外される程のリスクがあるなら、別にボスの座争奪戦になんか加わりたくない」というのが動物レベル、本能レベルであるのかもしれません。

そして、ほとんどの動物でメスは支配される側です。だからこそなるべくボスに可愛がられようとするのは普通なのでしょう。

本能的な仕組み

どうしても、人間社会のこととなるとなるべく人間社会的に、思考の上での論理の上でという面から考えてしまいますが、こうした本能的な仕組み自体が完全に無くなっているわけではありません。

特に知能が発達し、いわゆる前頭前野で抽象的な情報の空間にシフトしている状態でないと、こうした本能的な仕組みの影響から脱することは難しくなるでしょう。

本来で言えば、そうした本能的なレベルからいくらでも脱することはできるのですが、世間を見渡してみると「あなたの好きなことは何ですか?」みたいなことを聞かれて思いつく「好きなこと」と言えば、ほとんどが低次元で感情を高ぶらせるようなことばかりのはずです。

ほとんどの人は商売上や「自分もそうだから」という理由で否定しませんが、飲みに行って「どんちゃん騒ぎ」など低レベルです。

支配される側でいたいという無意識の選択

そうした比較的本能寄りで知性の発達が進んでいない人からしてみれば、支配される側でいたいという無意識の選択は当然といえば当然なのかもしれません。

逆に貪りの欲丸出しの「動物のボス側」の人も比率は少ないですが存在することは存在します。ブラック企業の経営者などはそんな感じでしょう。

ブラック企業の横暴なボスが存続できるのも、従業員側の「支配される側でいたい」という無意識の選択が影響を与えていると考えることができます。

支配関係

まあ比較的欲や怒りの度合いは少ないですが、宗教の教祖と信者も概ね支配と被支配の関係です。暴走したカルト以外の、社会では「まとも」とされているようなところも構造は概ね支配関係です。経済社会においても基本は支配と被支配です。

宗教における教祖と信者は圧倒的な力の差があります。全てを教祖側が掌握しているといっても過言ではありません。

ということで、信者みたいな人は支配されたい側の人達ということです。

特に「熱心にお祈りすれば…」とかそういったタイプはまるまる当てはまります。

そんな人達に「自分の頭で考えろ」とか、「あなたも独立すればいい」とか言ったところで、おそらく抵抗の方が勝って、結局言うだけ無駄になることは目に見えています。

すばらしい理想を語っているのに通じないのはなぜか?

そこで考えてみたいのが「平等は尊い」です。

確かにそれはそうなのですが、力関係の差、支配関係を本能レベルで求めている人たちが大半であることも一方で事実です。

「これほどすばらしい理想を語っているのに通じないのはなぜか?」

という時にそんなことを思い返してみると良いかもしれません。

ただ、支配を求めている人達が多いからと言って、それが正しいということではありません。

そうした無意識レベルの欲求が根底にあるところから、話をしてみても良いのではないか、という参考程度にという感じです。

被虐と解放

支配する 曙光 181

Category:曙光(ニーチェ) / 第三書

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