以前から、何故かどこかに漠然とした違和感や生存的不安が頭をよぎったりしていました。
「え?」という感じでしょうが、これは実社会におけるリアルな数字の話です。
いろいろな夫婦を見て、「なぜあの人達は揉めているのか?」というところを、様々な角度で観察して得た結果でもあります。
それらを感情論的な「べき論」で終わらせずに、具体的でリアルな計算で示せば、「感情」という領域から出ることができるのではないかと思い、モデルを考えてみました。
まずは我が事を例にとって示してみましょう。核家族をモデルとします。
違和感や生存的不安の正体
これは妻と幼い子がいる家庭全般に言えることですが、我が事として「うーん…」となっていたことがありました。
それを完全に暴くために「計算」をしてみることにしました。
これはですね、結局「僕が稼いでいるから良い」ということで終わらせることに対する家族全体の「リスク」でした。
どこかしらに「これで大丈夫だろうか?」という違和感がありました。
その正体は、次のような計算で暴くことができます。
数字は地方によって異なりますが、大体で計算していきます。
便宜上、夫、妻と表現していますが、それは各家庭によって異なるので、逆の場合もあります。
とりあえず、一方だけが稼いで、もう一方は家事育児のみか、プラスでパート程度というような構造を、夫と妻という言葉で示しているというような感じで進めていきます。
イベント的イレギュラーを除き、仮に月の最低生活費、維持費のようなものが25万円くらいだったとします。
それで妻が専業主婦で所得ゼロ、もしくはパートで5万円くらいの稼ぎだったとします。
「夫側が100万円でも200万円でも稼いでいればそれでいいじゃないか」となりそうですが、それでも結構リスクがあります。
仮に、何かの理由で夫が働けなくなり、夫の収入が「0」になったとします。
その時、慌てて妻が15万円の仕事を始めたとします。
それでも月々のマイナスは10万円です。
ここで計算が入ります。
貯金が1200万円あっても、10年しかもたないんです。
子どもが0歳なら10歳で破綻します。
まとめると以下の通りとなります。
最低生活費 25万円
所得 15万円
不足分 10万円
貯金 1200万円でも「10万円×12ヶ月×10年」で破綻。
もちろん、最低生活費を調整したりすることはできます。しかし治療などにより一層の費用が必要になる可能性もありますし、自宅療養なら家庭内の光熱費なども上がるという面もあります(外食費などは減るかもしれません)。
そこでリスクの算出には、夫、妻側の実家などの支援可能性(実家に転居等を含む)なども入ってきます。
「保険でカバーできるだろう」
という考えもありそうですが、死亡なら大きなお金が入ってきますが、病気の場合は上限があります。
たいてい入院に対するものなので、あてになりません。
社会保険の傷病手当金(1年半程度はカバー)や任意の就業不能保険もありますが条件や期間の上限もあるためすべてのリスクを全期間にわたりカバーすることはできないというような点があります。
その他、インフレや光熱費の価格変動リスクもあります。
「私は自分のやるべきことをきちんとこなしている」ではこのリスクは払拭できない
つまり、違和感の正体は「主婦的思考」で、「家庭内のこと、母としての役割はきちんと全うしている、私は自分のやるべきことをきちんとこなしている」
という点だけではクリアできないということです。
「夫が稼げば良い」というのは楽ですが、
仮に貯金が1200万円でも安全圏内ではないという事実があります。
で、夫側は夫側で、あまりお金のことを言うと、「稼げない情けない男だと思われるのではないか?」ということで、こうした点に触れないようにしたりしています。
しかしこれは感情論ではありません。
仮に、双方所得ゼロで、20年間維持しようとすると、社会保険などを無視した場合、25万円×240ヶ月で6000万円の貯金が必要になります。
25万円というと、さほど贅沢な暮らしというわけでもないかもしれませんが、それでも全く心配なく暮らすには「6000万円の貯金」が必要になります。
これは、25万円×12ヶ月、年間300万円の消費をしながら500万円貯められる(つまり手取りで800万円の所得)がある人でも12年かかります。
手取り年収800万円でも12年かかる計算です。
こうして計算すると、勤め人家庭では、いかに非現実的か、がわかります。
そこで考えてみたいのが、不足が出ないように妻側が家事育児をこなしながら、月に25万円以上稼ぐという事が可能なのかどうかです。もちろん、それまでの職歴や資格、ビジネススキルがあれば金額としてはさほどハードルの高いことではありません。
しかし、その妻が過労等で倒れたら「終わり」です。
ということでリスクが高すぎるという感じになります。
そこで考えてみたいのが、言い方は悪いですが、専業主婦やパート主婦程度の人たちが重視している感情論と経済的意識の低さです。
「保護者同士の張り合い」や「パートの人間関係」などに注目している場合なのでしょうか?
そんなことは生存リスクがクリアしてからでも良いのではないでしょうか?
そんな事を思ったのが、幼稚園のプレゼント交換会的なもの用に、各家庭でプレゼントを用意してくださいというような話にまつわるエピソードからでした。
園児向けに「柄入り消しゴム」などが良いだろうという意見に対し、大人向けの消しゴムを用意した人が、
「柄入りでなければダメとは書いていなかった!」
と怒り出し、保護者同士で揉めている様子などを見て思いました。
100円で買い直せば終わる話を、いつまでも何時間も討論している姿を見て
「その裏にこんなリスクがある中、なんてのんきなんだろう」と思ったことに起因しています。
あなたが吠えている間、どれだけの時間的損失を生んでいるのか考えてみたことはあるかい?
という感じです。
そのやり方ではクリアできない
さて、端的には「いざという時、自分にもできそうなパートに行けば済むだろう」という発想ではクリアできないという事実を一度くらいは見て欲しいということです。
短期的にはそれで構いません。
月に5万円でも10万円でも稼げば短期的にはしのげますし、夫の回復を期待すること一応できます。
しかし長期化したときのリスク、例えば微妙に手当が出ないような精神疾患などです。責めるのは簡単ですが、現実の資金リスクはそれでは解消しない場合があります。
友人知人の例で言えば、病気やら何やらで臓器の一部を取り除いたりした人たちが何人かいます。あと原因はわかりませんが、なぜかずっと喉が痛いという人や「歩くことはできるが走ることができなくなった」という人もいます。
それで職業が制限されたり、長時間労働が厳しくなったりということがあるようです。そのことで、何か永続的な年金や手当があるならいいですが、微妙にそうしたものがない場合もあります。
こういうリスクがある中、経済的リスクを何も考えず「くだらないプライド」を出しているというはどうかなぁと思ったりするわけです。
それを普通に語ると感情論や倫理観(たいていは自己都合の社会的風潮の語り)程度で終わってしまいます。
しかし、計算で示すと理性が働きます。
誤解なきように言っていますが、バカにしているわけではありません。しかし、それを理解できないとすると、バカにしている云々ではなく、致命的なバカだとは思います。
「私は自分のやるべきことをきちんとこなしている」
それはそのとおりです。なので素晴らしいと思います。
ただ、一方で、その考えだけではクリアできないリスクがあるというだけです。
「夫がもっと稼いでくれたら」
といっても、そういう考えではクリアできないんです。
それで貯金が数千万円あっても、やっと維持できるくらいなんです。
そうした中、文句を言っている場合ではありません。
しかし、数字を示さずに言うと、感情で突っぱねます。
ただ、そういう問題ではないのです。
きちんと把握すると、「家族みんなの健康」を含め、今の生活が成り立っていることに感謝もできるようになるかもしれません。
おそらく朧気ながらどこかで気づいているが解消法が見つからない
そういうリスクのようなものについて、自分で働いたりしたことがある人は、おそらくある程度は、朧気ながらどこかで気づいているような気もします。
ただ、解消法が見つからないので、違和感としてだけ持っているという感じになっているのではないでしょうか。
個人的にはすぐに計算してしまうので「何となく」でものを買うことはほとんどありませんし、消費、投資という区別もしています。
ただ漠然と、「マイカーを買え」、「この金額くらいのマイホームを買え」というのは、かなり危ないのではないかと常々思っています。
それは、リターンに対して維持にかかるリスクが高すぎるというところから来ています。
しかし計算や投資的意味合いを考えずに、購入を拒否すると「情けない」というような感情論に持っていかれそうになります。
最近幼稚園などで見かける「お父さんたち」が結構な確率でやや精神を患っているのは、こういう点から来ているような気もします。
例えば、住宅の購入リスクはかなり高く、大きな損失を生む可能性があります。
何かしらの理由で維持できなくて売却した時に借金だけが残り、それの返済と新住居の住居費までかかるとなればかなり危ないという感じになります。
「買ってすぐ売ってもさほど損失が出ない物件」でないとリスクが高いという感じになっています。
これらリスクは「実家に帰ることができる」とかそうした面がどのような状況なのかによってリスク度合いは変わります。なので一概には言えません。
買いたくないのではなく、「リスクを分かっていないものに脅迫されるがまま買うのは危ない」というだけです。
家庭の内側にいるような主婦や学生の視点に合わせると、かなりの高リスクとなります。
いざという時、泣いても叫んでも現金は降ってこないのですから。
ただ、そうしたことをイエスかノーかの二元論だけで考えずに、数字の計算で示していくと、感情領域からは脱することができるのではないかと思います。
「稼げるなら貯金はいらない」というのはリスクが高すぎる
「稼げるなら貯金はいらない」ということを言う人もいますが、おそらくそういう事を言う人は、自分や自分の周りで「手当を受けられるほどではないが、あまり働けない」という状況を経験したことがないのではないかと思います。
僕個人は十代後半の頃に一時的にそのような状況を経験しています。なので、我がこととしても、自分の家族のことを思うという点においても、「稼げるなら貯金はいらない」は暴論ではないかと思います。
もちろん言いたいことはわかります。貯蓄に気を揉まずに、お金を回して事業を加速させましょう、資産をもっと作りましょう、というような感じなのはわかります。
ただ、それは文字通り「う◯こがでかいだけ」なのではないかと思います。
このリスクをどうやって最小化していくか
ということで、このリスクをどうやって最小化していくかという点に移ろうと思います。
ひとつは
「経済観念が幼稚なものには合わせずに、数字で示して感情論を排除する」ということなのですが、これだけでは、根本リスクを小さくすることはできるものの、やはりまだリスクはやや大きいものになります。
実際の数値を計算して可視化するというのがいいですね。
でないと、仮に「携帯電話のプランが一番高いものになっているのを抑えよう」と言っても突っぱねられますから。
こうした可視化の方法を取ると、説得スキルなど要りません。
でも、まだリスクは残ります。
では、貯金を数千万円にするということなのかということになりますが、それは事業家や投資家でない限り、短期的に作るということは、かなり厳しいものになります。
(こういう構造を上手く悪用したものが、マルチネットワークや投資詐欺なのではないかと思っています)
通常、現実的なのは、就業不能保険などで短期リスクをカバーしつつ、その後、長期的にどちらか一方が働けなくなっても成り立つレベルの所得を一人でも得れるようにしておく、ということです。
「健康保険」ならば傷病手当金(病気や怪我で休業した時に給与の2/3が支給される。最大期間は1年半)でリスクを減らすことができますが、個人事業主で国民健康保険の場合は、傷病手当金のような制度がないためリスクが残ります。そのため他の保険でカバーしておくなどの配慮も必要です。
「ひとりで家族全員の生活を成り立たせるだけの所得を得る」
これは、仮に夫側ができていても妻側ができていないと難しくなります(この表現は、便宜上ですので男女が逆の場合もあります)。
何かある程度高い所得が得れるようなスキルや資格があるのならばリスクは軽減されますが、そうでない場合は、少し厳しいような感じもします。
ちなみに、ほとんど参考になりませんが、僕ならどうするかと言うと現金資産をある程度置いておいて、そのうちの一部を事業開始資金として置いておきます。
「1200万円置いておいて10年耐える」というようなものではなく、例えば100~300万円くらい事業資金として置いておいて、妻に、「それを元手に一日に働くのは3時間でも、月に25万円以上できる仕組みの作り方」を書いて置いておきます(自分が話せるのならば話します)。もちろん妻のスキルや特性と時代に合わせて、という感じになりますが、そんな感じで対処します。
短期的には、どこかで働くというのも良いのですが、それだけだと不足していって娘が大きくなるまで生活が縛られます。
なので、そういう感じでどんどん楽になる方向に向かえるように対処してもらうと思います。
普通は、不動産収入なども考えるのでしょうが、それは現金の流出が大きいので、そういうのはかなりの資産を持ってからになります。
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最近、幼稚園の保護者の方からNISAについての相談を受けたりします。しかし、残念ですが素人が投資に手を出すより、携帯電話のプランを変更する方が簡単で確実です。
金融商品にしても、学資保険代わりに貯蓄目的で終身保険に加入しておいた方が節税効果と合わせると投資信託等々より利回りが良い可能性もあります。中途解約リスクはありますが、変動リスクもなく確定しています。
そういうことは、実は情報がたくさん出回っていて、調べようと思えばいくらでも調べられます。
しかし世間は、くだらない噂話の方が好きなようです。
そういうのもいいですが、それではリスクも不安も消えません。
リアルがわかれば「くだらない感情」とはさよならできる
なんとなく、根底にこうしたものがあるせいか、その不安を紛らわせるために非生産的なことに意識を向けている人が多いような気がします。
不平不満のようなものも、こうしたことから起こるのではないかと思っています。
例えば、「稼いでいない側」から「せめてたまには旅行に連れて行って欲しい」という漠然とした主張があるとします。
しかし根底には、「そうある方が良いが、それではこの不安は消えないんだ」というものもあります。
むしろ消費によってリスクが高まるという点が違和感となり、一方で、それくらいはした方が良いという気持ちもあり、葛藤が生まれてモヤモヤするわけです。
仮に「そんな金はない」というと、家族的な絆は薄れ、「情けない、甲斐性なし」という烙印を押され、別の側面でリスクが高まります。
逆に「行こう行こう」と要求をそのまま受け入れると、金銭的生存リスクが高まります。短期的には評価は高まりますが、次の要求の布石にもなります。
なので、折衷案として「スルー」を選んだりする人もいるのではないでしょうか。
そうしたらそうしたで「気持ちをわかってくれない」というようなことで関係性はジリ貧になります。
ただ、リアルがわかるとこうしたくだらない感情論からは逃れることができます。
共通の意識を作る
実際にどうするかはわかりませんが、夫婦等で金銭を中心とした生存リスクを把握した上で、共同作業として旅行計画を行い、旅行をゴールとするのも良いのではないかと思います。
例えば、単に「旅行につれていけ、旅行代を出せ」「旅行に行くような余裕はない」というのではなく、生存リスクを理解した上で、数値的目標を共同で達成するというようなものです。
でないと、稼いでいる側が「脅されて、虚しい」となるだけです。要求を受け入れても、受け入れなくても、不安が加速するだけになる可能性があります。
稼いでいない側も「何のために生きているのか」というような気分にもなってしまうでしょう。
―
ということで旅行計画です。
稼いでいない側は
「微妙に調整できそうな経費を削減して月に5000円を捻出して3ヶ月で15000円を作る」
「不用品をフリマアプリで売りさばいて35000円作る」
一方稼いでいる側は、
「残業するなり何なりで、3ヶ月で50000円作る」
「こうして100000円を作って、3ヶ月後に旅行に行くとすればどうするか?」という計画を楽しむということです。
(数値やお金の作り方はたとえです)
こうしたことをやっておくと「いざという時に相手を責めるだけで、根本解決はしない」というような隠れたリスクを排除することもできるようになります。
さらにゴール達成に対する自己評価にもつながります。
稼いでいない側に潜む「なんだかんだで人に依存している」という感覚にやられることも少なくなるでしょう。
逆に、稼いでいる側にしても「一方的にタカられている」という感覚もなくなり、「いざという時は、多少任せられるかもしれない」という安心にもつながります。
共同作業をすることで「金の切れ目が縁の切れ目」的な不安も薄れるでしょう。
ある程度稼いでいる人でも、どこかで「結局、金の切れ目が縁の切れ目なのではないか?」という不安を持っていたりします。
そういうのも薄れるのではないかと思います。
お互いが「自分の気持ちをわかって欲しい」などと感情論を展開していると、実質的にグチャグチャになります。
そういうグチャグチャ感があり、自己正当化のために、どこかから理屈を引っ張ってきたり、賛同者を集めたりして感情を正当化しようとしたりします。
しかし、そうした感情の正当化は賢明ではありません。
ある側面からの正しさはあっても、実質的には「正しくない」ということになります。
―
夫婦らしい、「パートナーらしい感じ」の夫婦で溢れますように。
