「ただいま」
「おかえり」
これは僕から僕への言葉であり、それ以上でも以下でもありません。
(「どうせ日常の家族話だろう。スルーしよう」と思った方には残念です)
―
先日、いろいろと思い出そうとしたのですが、
思い出せないことがたくさんありました。
あの人といっしょにあの場所に行ったことは覚えているが、現地集合だっただろうか?それとも駅から一緒に行っただろうか?
というような部分で、どう頑張っても思い出せないようなことがたくさんありました。
思い出したからといって、それには何の意味もないのですが、どうだったかなぁと、絞り出すように思い出そうとしても、思い出せませんでした。
そんなこんなで「あの日の僕はどうしていたのだろう?」ということをいろいろと探ってみようとしましたが、意味がないことは思い出さなくてもいいということで、やはり思い出せませんでした。
「どうせ今何か考えていることも、いずれ思い出せなくなるのだろう」というようなことを感じながら。
「今、どのような状況にあっても、それと安らぎとは関係がない」
そんなことをまたドカンと味わいました。
なので、
「ただいま」
「おかえり」
です。
どこかしらで張り付いていた何かが、するりとどこかに行ったような感覚です。
それが何だったかはわかっていますが、特に語る気はありません。
かなり昔からだったんだなぁ、と思います。
―
極端に言うと、川の上に家があるようなアジアのどこかの家がありますね。
あの家で生活する、ということも、一応可能なんです。
そういうことを忘れそうになるというのがいけません。
―
最近ふっと思い出すことと言えば、「普通なら思考が巡ってしまいそうなことをさらっとやっていたなぁ」ということです。
小学生の時、友達の家に行くと、そこのお母さんが出てくることがありますよね。
その時、友達の家は、まあまあ裕福な家庭だったので、お母さんが皇室の方のような服で出てきたんです。
その時にいた部屋の感じも相まって
「あ!お姫さま」
という言葉が出てきました。
すると、友達のお母さんは上機嫌なんです。
僕は家に帰っても自分の母に
「XXくんのお母さんはお姫さまみたいだった。お姫さまが出てきたと思った」というようなことをさらっと言います。
すると母がそのお母さんにもいいます。
そのような感じで、平和で嬉しい世の中が回っていたんです。
それを歪ませるのが「思考」です。
裏の意図があるのではないか?
等々、いくらでも思考を巡らせることができます。
そこで、嘘か本当かを見抜くための表情の動きなどを体系的に学ばなければならない、などという思考まで巡ります。
そういうのが余計なんです。
―
おそらく僕は、「褒める」という概念が嫌いなんです。
そこに不自然さがありますから。
「あ!お姫さま」
は、普通なんです。
普通のことなのに、それを意図的にこねくり回そうとするような感じが嫌なんです。
思ってもいないのに、何かしらの意図のために「やらなければならない」という属性を加える感じが変だなぁと思っているわけです。
―
そのような感じで、より一層自然体です。
