超人的感覚の意図するところ

論理的整合性は意図的に無視して「誰にでも読めて誰にも読めないかもしれない」という感じで、超人的感覚について触れていこうと思います。

最近、特に自分が意識していなくても、ニーチェやエリクソンやゼランドなどが僕の世界に入っていきます。なので、そうしたテーマに沿って書いていこうと思います。

怒りにしても欲にしても、何かしらのソワソワ、緊張をなんとかしようというようなものが根底にあります。

生きていて一番厄介なのは「正論っぽいこと」です。正しそうな空間のかたまりです。

この正論っぽいことにいかに影響されずにいるか、ということが、ニーチェ的な超人であり、エリクソン的な「リソースは全てあり、選択が制限されている空間から脱する」という治療の方向であり、少し不思議系で言うと、最近再燃しているヴァジム・ゼランドが示す空間で示される「脱・振り子の影響」でもあります。ちなみに行き着く先は、正覚と涅槃です。

何でもかんでもそうですが、結局ある空間―それは組織であったり概念であったり、論理的な解決法であったり正当性であったり―は、時に一定の有用性を持ち、時に解決をもたらすことがあります。

何に対する解決か?

それは欲や怒りです。

なので、その空間、方法、正当性に

「とらわれる」

ということが起こるわけです。

他人同士が揉めているといっても、それはその人達の「緊張解決法」がある論理空間、情報の空間での解決となっていて、それを上手く操作して緊張を解きたいのに、緊張が解けないから怒りが生じているわけです。

ということは、最初から緊張がなければ、何の空間の影響も受けないということになります。

これの操作不可能性、操作不可能感は、関連思考で思考対象の枝葉が伸びていくとさらに厄介になります。

厄介さの構造を少し見てみましょう。

例えば、娘が不機嫌だと自分に緊張が走るという構造があるとします。

この時、不機嫌でなければ自分の緊張は解けると思います。

そこで不機嫌の原因を探ります。

「幼稚園で何かストレスを溜めている分、夜に家で不機嫌が起こるのかもしれない」という一種の仮説が起こります。

では、そのストレス対象の中で「仕方ないもの」と「なにかやりようがあるもの」があるという判断をします。

教育現場の環境が悪い可能性があるという可能性が見えます。

少子化で園の収入が減っているため人件費を削減する方針になっていることから、先生が足りていないという問題が起こっているのではないかという事を考えます。

こうなると、自分の緊張を和らげるのに、「少子化の問題を解決しなければならない」ということまで思考対象に入ります。

この時様々な「正論空間」が生まれます。「べき論」の登場です。

そして正論空間を主張するためには「正論を主張できるように、言い返されないようにしておかねばならない」という「義務感」が生まれ、それができないと「罪悪感」まで生まれます。

しかし、自分に緊張がなければどうなるでしょうか?

自動最適化、フルオートマモード

そうなると起こることは、自動最適化、フルオートマモードへの突入です。

「何かを選んで、何かをやらなければならない」

という「緊張」すら手放しています。

信念に沿って勝手にやってきます。

ちなみに「合理性から選んで、自発的に行っていて、その結果を得ている」というのも、信念に沿って勝手に起こっていることです。

すべての概念空間は、エネルギーを奪うだけです。時に良い目を見せてくれることもありますが、最終的には破綻します。

では何もしてはいけないのかと言うと、それがベストだからこその「出家」であり、そうでないのなら飲み込まれないように、波に乗るように付き合うというのが一番だということになります。

(このあたりはゼランド氏の説明がうまいと思います)

そうなるとツァラトゥストラ的な超人的感覚の意図するところが見えてくるはずです。

これを少年ジャンプ的に捉えてしまうと、「いかなる困難や障害があろうとも、やりたいことをやり切れ」的な、NIKEの好きそうな概念が生まれます。しかしそういうことではありません。

「やりたいことをやり切れ」

「やりたいことがなかったらダメだ」というような言い草です。そういう体育会系空間はまさに概念空間であり「正論っぽいもの」を生み出す空間です。

選択が制限されている状態

正論っぽいもの、その中でも自分がかつてうまくいった場合があるものにしがみついている状態は、「選択が制限されている状態」です。

それで緊張がないのであればいいですが、「これで操作できるはずで、操作完了時には緊張は解けるだろう」という期待があるのであれば、それは破滅に向かう方向である場合があります。

ただ、こういう場合に、「それは違うよ」と言っても聞く耳がある場合とない場合があります。なので、単に別の正当性を持ち出せば解決するということではありません。

「それは違うよ」というのも論理空間です。

それは違うよというのが本質的には正しくても、同じレベルの空間でこねくり回しても緊張が続くだけです。

ちなみにそうした場合にエリクソン氏ならどうするかと言うと、彼の理屈としては簡単です。ひとつはトランス(深い変性意識)です。ある空間に縛られている状態からフワフワと逃れる感じになります。そして、操作できる感覚が鈍っているのならば操作できる感覚を取り戻してもらうということをしているだけです。

「言葉が通じない相手をパントマイムで治療した」というのは、確かに奇術的に見えるかもしれませんが、なぜそれを不思議がるのかとすら思っています。

こういうことを言うと、これは現実的な選択において、Aという方法にしがみついていたが、BやCも選べるようになって…という程度のことしか思い浮かばないはずです。

しかしながら、現実はもっと広範囲です。個人の選択的行動の範囲を大幅に超えています。

自尊心獲得ゲーム

フラットな視点で見ると、たいていの人々の言動は自尊心獲得ゲームです。

しかしそれはある空間に飲み込まれていて、それで自尊心が奪われているような感覚を得て緊張しているからだけです。

「遠回りすぎるほどの遠回り」

実際の構造はそれだけです。

「バカにされないために学歴を欲して無理してそれに従い、しがみつき、それでも『人の役に立つために欲したんだ』という動機だったということにしなければ安い人間だと思われるので、元の動機を隠そう」

そのような構造ばかりです。

元は、バカにされたら緊張するというものだけです。

何かの基準があって、それに合致していないとバカにしてくる人がいるということになりますが、その何かの基準が「概念空間」であり、ゼランド氏風に言うと「振り子」です。

「バカにされないために」という動機で頑張るということ自体が、エネルギーを奪われるということであり、その空間自体はエネルギーを奪ってさらに空間を肥大化させるということになっています。

「なんとか新聞を読まないやつをビジネスマンとして認めない」

というような空気感、それもまさにそれそのものです。(たまに良い目を見せてくれることもありますが←ここがポイントです)その新聞を読んだところで何にもならない上に、同じようなセリフを言う人間を増やすだけです。

飲み込まれることと波に乗ることは違います。

その違いは、もし同じ事を言うにしても、どのような信念に基づき、本質的にどのような態度を取っているか、という部分です。

この信念の部分において超人的感覚に至ると緊張が解けてフルオートマになります。

「力の感情」「権力への意志」等といったところで、これは「俺は強いんだ」というようなものではありません。

個人的選択の範囲を超えた時に起こるつじつま合わせ

選択肢が5つから、ほぼ無限に増えた…

だからか…

ということになりそうなものですが、確かに握っていた観念以外の選択肢が見えてきてより最適な方法を選択できるようになり、さらに緊張も多少はマシになったということは構造として正しくても、実際はそれ以上のことが起こります。

「理屈で説明することもできるが、本質的にはなぜだかはわからない」

これが本当のところです。

「努力して確率を上げる」

そういうお勉強空間、体育会系空間は、かなりの制限をもたらします。

なぜあの時あの子と出会ったのか?

それは、いくらでも可能性や構造を説明することは可能ですが、本当のところは思考上ではわかりません。

なぜ、養子のウサギと出会い、彼が養子入りすることになったのか?

人生で一回だけです。

すべてが「たまたま」です。

もちろん理屈の上で、その家の方に対して自分が発した言葉が影響を与えたとか、そうしたものはあります。

しかしわかりません。

その時の感覚が正解です。

なぜかそれが曇る時があります。

曇りが取れていることを確認したくなるときもあります。

それは「重要度」が変化し、ある空間が重力を帯びて自分を吸い寄せようとし、最適な流れを阻害しているときです。

なので、「犀のようにただ独り歩め」ということが言われるわけです。

しかし一方で、それでもさらに突破する「超超人」に挑戦したいというようなことを信念として持っていたのかもしれないと思ったりもします。

旅を欲する目的は、単に今いる空間の臨場感から逃れたいというものがほとんどです。ほぼ同一のバランスで「義務空間」に制限されています。

これは、見方によれば一種の洗脳空間です。誰かが意図的にそうしたわけではないので、洗脳という言葉は適切ではないかもしれませんが「それはそのように見よ」という半ば固定化された観念があり、それで制限が起こっています。

誰か一人が指揮したものではありませんが、いろいろな空間、ゼランド氏風に言うと振り子がそれぞれ共同で指揮しています。

「努力して緊張しないための確率を上げる」

ということがどんどん起こります。

そうすると、その空間の法則性に従うだけになります。

努力と緊張と確率論が信念を形成します。

激ゆる、安穏、必要なものは勝手にやってくるという感じでいきましょう。

Category:philosophy 哲学

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