独り歩く夜道で出会った陰と陽

昨年は数え年で42歳厄年。ということなのか、昨年はなかなか散々な目に遭いました。その後日に日に良くなっていますが、たまに散々な目に遭うことがあります。それを無理に明るく解釈しようとすると、もっとおかしくなります。

特に陰陽にこだわりのようなものはありません。

しかしながら、誰かが流行らせたのか、世の中ではある時からやたらと「ありがとう」を言おうというような雰囲気があります。それはそれでいいことですが、見方によっては、陰と陽のバランスがおかしくなってしまうのではないかと思ったりもします。

特格思い残すことがないようにと、年賀状を今更「桜花の候」などと書きながら返してみたり、数年前にいただいた品のお礼などをしたりしました。

この数年前にいただいた品というのは、娘が生まれてしばらくした頃に、実家あて(今の住所は知らせていませんでした)に昔から付き合いのあるお客さんが送ってきてくれていたものでした。それが知らぬ間に実家において山積みの荷物の中にまぎれ、少し前に母の介護環境を整えるにあたって発見したという感じです。

送っていただいたものの配送の日付を見ると数年前です。

それについて「ごめんなさいの品」+詫び状兼お礼状を送ったりしました。

ただ、僕はそんなことをしながら、「AI時代だ」などと言われたりしている現代において、今こそ現実的な深い付き合いをしていこうと想ったりもしました。

なるべくやり残したこと、思い残したことがないようにというような思考というか雰囲気というものは、まるで死期が迫っている人のような感じです。

雰囲気だけですが、それはその通り、死が迫っている感じとは少し違いますがそのような気持ちで過ごしていました。

「特にやりたいことがない」

そのような感じでした。

「何かを頑張ったところで仕方ない」

という感じです。

それを無理に明るくしようなどと想っても、明るくなれないことはわかっていますし、明るくなれないことでさらに暗くなってしまうような気もしました。そのようなことは18歳くらいから何度も繰り返しています。

「人のために」

ということは素晴らしいことです。

しかし人のために何かをして楽しかったり嬉しかったりすることもありますが、いつもいつもそういう感じというわけではありません。

「人のために」

と想っても、

「その人が楽したり得したりするだけじゃないか。こっちは全然面白くも何とも無い」

という時もあります。

そういう気持ちの両側面について、一方を否定して一方だけに偏らせようというのが、陰と陽のバランスを欠くということです。

かといって「自分のために」と想っても、さほど何かが爆発的に楽しいとか、心地いいとか、そういうのはなかなかありません。

人のためでも自分のためでもどちらの視点でもダメな時もあります。もちろん良い場合もあります。

いっそ「私はもう頑張れない」とか「もう何も頑張るつもりはない」という気持ちを味わうことにしました。

深夜、少し寂しいような住宅街を独りで歩いてみました。

そういえば、親友が数年前「20代の頃の勢いが戻るなら自己啓発セミナーに洗脳されてもいい」というような事を言っていたことを思い出したりしました。

まあ気持ちは一応わかるけどなぁ。

ただ、やはりそれでは「生きていて、それでどうするんだ?」という方向に行きます。

そうした散歩に行く少し前に、ミルトン・エリクソン氏についての本を読んだりしました。

それはずっと家にあったのですが、集中が続かずに読破せずじまいだった本です。

そういえば彼の基本姿勢は「答えは既にその人が知っている」とか「あくまでその可能性を開く」とか「どんなものでも利用、活用することができる」という感じです。

強烈な負荷がかかった時に、意識が嫌なことから逃げるというか、心を守るために起こる「解離」ですら、本人が幸せになるために、良いことに利用することができる、というような感じです。

そんなことを思い返しながら、ただの住宅街を歩いていると、「すべての物事がジリ貧で破綻するような感覚」を、なぜかうまく使うことができるような気がしました。

家に帰ってきて椅子に座ると不思議な感覚になりました。

陰と陽のバランスを取ろうというような意図はあったのかもしれませんが、陰と陽がひとつになりました。

暗いから明るくしようというような感じではなく、光と影が統合される感じですね。

すごくワクワクします。

そしてすごく嫌な感じもします。

パニック障害が起こる前の17歳くらいの時のような力の感覚があります。

会社を創業した時のような、妻と二人で暮らし始めた時のような、ワクワクと嫌な感じが合わさっているような感覚です。

つまり包括している感じです。

「まあこんな感じで過ごしますか」

という何かの完成のような感覚になりました。

特に引きこもっていたわけでもありませんが、その直前は、半ば引きこもりに近い状態だったのかもしれません。

引きこもりの最中は、何もしていないように見えて強烈に頭を使っています。のほほんと過ごしている人の数倍どころか百倍は使っているのではないかと思います。

ただ、使う矛先が無駄に溢れています。

のほほんとしている人や、キラキラありがとう系の人たちは、そういう陰のようなものを後の何かのためだったということにしたがります。

全くの無駄ではありませんし、確かに部分的には後の何かにつながっていることもあります。

しかしながらほとんどは無駄です。

何かしらの社会の枠組みに沿ったルートに行きたいがいけないということを悩んでループしているだけですから。

ある空間でループしているだけという無駄です。

ただ、頭は非常によく回転させています。なので毎日疲れています。しかしほどんどはただの妄想です。

その状況を脱したいという感じではなく、捨て身のような感じで思考をスライドさせてみてもいいのではないかとも思います。

「すごく嫌な感じ」をどう捉えるかです。

すごく嫌な感じというのは、今までの自分が否定されたり、状況が変わったりすることに対する自我の抵抗です。

「すごく嫌な感じがするからやめよう」というのでは普通です。

「すごく嫌な感じがするからやろう」という狂人のような思考になるというのが一種の捨て身です。

「今あるものすら保てなくなるかもしれない」というのがいいんです。

「どうせジリ貧ですべてがつまらなくなる」という感じになるのであれば、それらすべてが破綻しようがお構いなしです。

では何をどうするか、ということになりますが、とにかく意識の矛先を具体的な何かに設定してみます。で、無駄なループに使っていた思考エネルギーのようなものや体力をすべてそこに使います。仮に過労死しようが「生きていても仕方ない」と思うよりは随分いいじゃないか、という感じです。

僕の場合は事業の再構築のようなものでした。放っておいてもある程度キープできますが面白くありません。ジリ貧です。

お客は減るかもしれませんが10倍になるかもしれません。

むしろ「10倍になるまでを目安として、趣味として続けます」という感じで過ごしています。

会社を作った時のような感覚です。

「すべての物事がジリ貧でいずれ破綻する」ということなのであれば、思い残さずに物事を試していくことができます。

取り戻したかったような明るさよりももっと面白い世界が広がっています。

寝ても覚めても事業の新しいあり方のことを考えたりしています。ノートを常に持ち歩いています。

その一方、ふたり絵本クラブにも拍車がかかっています。むしろ深夜に一人で勝手に描いたりしています。

「頭にあるイメージを外に出さないと眠れない」という一種の手塚治虫氏病のような感じになっています。

ちょっと陰気臭いようなあの夜道が、「陰」を肯定したあの感じが陰と陽の統合をもたらしたような気がします。

Category:miscellaneous notes 雑記

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