僕は体育会系ではありませんから、身体の限界と銘打っていますが、特に運動能力的なことについて触れるわけではありません。いわゆる五感を通しての楽しめる限界についてです。
やたらと楽しいことを求めてしまうのは「アイツ」の仕業ですが、楽しみについて以前少し考えたことがあるので、一応書き記しておきましょう。
必要以上にお金を欲しがってしまうのは、ひとつは安心感、もうひとつは楽しみを求めるせいですね。安心感については今までにもさんざん書いてきました。楽しみについて今回は書いていきましょう。
精神力と身体
精神というものは体と密接につながっているとよくいわれますね。実際に外傷などは別にして身体の不調の9割以上はストレスが原因です。
病気も含めて極度の集中力を保てばたいていの不調は治ります。精神力だけで治るのかと思われそうですが、実は結構治ります。精神力というと「うーん」と力むことをイメージされそうですが、そんなことではありません。それは体育会系の発想です。パワーで何とかするというものではありません。
ただ、それで対応できる類となかなか対応が難しい類があります。老化はどうしてもしてしまいますから、ある程度は仕方ありません。どうしても疲労も止められません。苦しさを感じなくするということはできますが、そんなに疲れるまで何かをするというのも非常に馬鹿らしい話です。
よくランナーズハイ的な感覚を仕事中も感じたりするものです。これは特に珍しい現象ではありませんね。しかし、疲労自体がなくなっているわけではありません。
別にスピリチュアル系の人が言うようなことを言うつもりもなく、心身二元論的なことをいうつもりも毛頭ありませんが、が、身体自体は苦しいものです。精神だけである程度のことはできますが、ある程度以上のことはできない。基本的に自分の意志とは関係なく苦しんでいってしまうものです。それは言うまでもなく感じてしまうことなので止められません。体の苦しみをアイツが反応して、一応苦しみを与えてきます。なければ苦しみもありません。
不快の解消と楽しみ
本来なければ苦しみもないのに、苦しみを解消すれば「嬉しい」と錯覚させようとします。これと同じような構図で「なにか楽しみを見つけろよ」と命令してきます。しかし、五感で感じられる楽しみというものは五感の限界以上にはありません。そして五感にはリミッターが設定されています。同時進行できるので、なかなか一点に集中することができません。
身体の限界
言うまでもなく、目の限界以上に何かを見ることはできません。この時に見る対象は光の解釈です。物理的な対象と光の波形のもたらす「差」の認識でしかありません。世界最高画質で見ても、生の視界には勝てません。生の視界がある意味での限界です。世界最高音質でも自分の耳でしか聞けません。なので当然に自分の耳の限界が聴覚の限界です。
しかしながら、この限界は本来の限界には達していません。それは集中力で限界に近づくことができます。それでもやはり限界はあります。
そんなことをふと思った時に、いくらお金をつぎ込んでも限界が見えてきます。
自家用ヘリで普通では見られない景色が見れるかもしれませんが、結局視覚以上には認識できない、お金を三倍だそうが、三倍になるわけでもない。しかも集中していなければ景色は見れても限界までは感じることができていない。じゃあ結局何をしているのかわかりません。
ステレオセットでも家電量販店ですら何百万でもかけられますが、聴く側の感性には全然触れられません。結局物理的にいくらいじっても、受け取り手の「耳の肥え方」でかなり変わってしまいます。
音響設定
2、5.1、8.1など何chかでグレードがありますが、僕は以前は5.1chにしていました(0.1はサブウーファーですね)。今でもヤマハのアンプとテンモニですが、2chに落ち着きました。イコライザーもブースト・カットなしのフラットです。音量を下げるときにだけ少しラウドネスをいじるくらいでしょうか。結局フラットです。
友人もそのような傾向になっているようです。最適に合わせてあるのにわざわざいじる必要もない、そんな感じになってきました。
オーディオマニアみたいな感じで、機材に数百万もかけて「クラシック」や「ジャズ」を聴くこと趣味にしているという人がいますが、おそらくいままでご自身では音楽をやっていない人だろうと思います。クラシックで眠くなるということがよくわかりません。
極度に集中してクラシックなど聴いてしまえば5分くらいでフラフラになります。指揮者の人がよく汗だくになっていますが、あれはタクトを振ればわかります。つまり、そんなことを趣味にしている人は、実はあまり聴いていないというか聴いても感じていない証拠ですね。そんな趣味を持っている自分に酔っているだけだと思います。
楽しみの限界
ということで、しっかり聴いたりすると、2chでも音の左右だけでなく上下の空間や「あ、ここコンプのかけ方がひどい」とかもわかるようになるのですが、楽しみもそこが限界です。あとどれだけ物理的にいじっても楽しみは変わりません。
そんなことを考えると変にモノにこだわるのが非常に馬鹿らしくなりました。
以前、お花畑をずーっとみて、一瞬たりとも同じ状態でないこと、そこに普遍を求めても意味がないこと、そして、いくら稼ごうがこれ以上には楽しめないということに気づきました。いくらお金をつぎ込んでもそれ以上はない、それに気づいたとき、変化すべきは目の前の景色ではなく、それを受け取るこちら側だということに意識が変わりました。
ただ、それにもやはり限界はありました。楽しみを求めても楽しみはそれ以上にはならない。楽しみはそれを限界までは味わえても、それ以上はない、ただ流れていきます。それに執着することなく、憂うこともなく、楽しみを渇望することもなく、楽しみを忌み嫌い避けることもない。
人混みから少し離れた場所で、ただそこにあった緑が教えてくれたことです。
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