言論の自由

「真理は語られなければならない。たとえ世界が粉々に砕けようとも!」― 偉大なフィヒテは大きな口をしてこう叫ぶ!そうだ!全くだ!しかしわれわれは真理を実際に持たなければならないであろう!― ところがフィヒテは、すべての人はたとえ一切が混乱に陥ろうとも自分の意見を述べるべきである、という考えである。この点については、フィヒテとさらに論争することができる。 曙光 353

「言論の自由」という概念がありますが、どんなことであれ、それを社会が制限をかけてこようとしても、社会的制裁という圧力などがあるだけで、どんなことでも自由といえば自由です。

そこには周りの承認や支持などは必要ありません。

「話すな、語るな」と言っても、話し、語れてしまうから、そういった制限の言葉があるだけで、いくら制限されようが、できることはできてしまいます。

「真理は語られなければならない。たとえ世界が粉々に砕けようとも!」

と、フィヒテは語った、ということです。

意味のない言論

ただ、どんなことでも言論には自由がありますが、どのレベルでどの分野について語っているのかという点で、意味のない言論がたくさんあります。

もちろん知らなければ語ってはいけないというわけではありません。

しかしその言論には何の価値もないということです。

どういった意味での価値か、それは使用価値や交換価値のようなわかりやすいものではありません。ただ、その人の意識に有害か、無害か、もしくは苦しみを取り除くものなのか否かといった点くらいのものです。

確かに語ることによって、意識の中の情報が整理されたり、また新たな情報が意識に入ってくることによって、それまで見えていなかった点に気づいたりすることがあります。

言論の動機

しかし言論の動機の奥底には、自尊心の充足という点が少しか多くかは様々ですが混じっていることがほとんどです。

「オレの意見」

「ワタシの意見」

というモノを誰かに主張して、承認されたり称賛されたりして喜ぼうというものです。

もしくは、ただ単に自己都合です。自分の意見を通さないと、何か都合が悪い、という点をオブラートに包んで、真っ当そうに意見を出すということがよくあるでしょう。

様々な意見や主義や哲学をどう採用するのかは、その人の意識しだいであり、もちろんその構造からは抜けだせません。

しかし、そういった自由があるからといって、様々な意見や主義や哲学それぞれが、それぞれ「真なる理」であるかどうかということは別問題です。

確かにどんなものを選ぶかということは、制限をかけることができません。

しかし制限がかからず、自由があるからといって、自分の選択したものの正しさというものや、絶対性というものは別問題です。

自分だけが正しいとは思わないでね

「自分だけが正しいとは思わないでね」

こう言った旨のことを言われたことが何度かありますが、今では完全に正しいと思っています。

自分の社会的な意見が正しいかどうかや、誤字脱字含め表現の上手さなどは知りませんが、まあ普段書いているようなことは、完全に正しいと「思っている」わけではなく、あたりまえのことです。

それは、自由選択の可能性がいくらあろうとも、相手の意識の中がある主義などで満ち溢れていようとも、アタリマエのことを当然に扱っているだけで、いつも語るようなことは、僕の意見ではありません。

「僕はこう思う」という、雰囲気のような裏付けの無いようなものではありません。

「自分だけが正しいとは思わないでね」

こういったこと言う人は、言論の自由とか、思想信条の自由を根拠に、様々な選択肢があり、どれを選ぶかは自分に権利があると思っています。

もちろん他人に侵害されるようなものではないのですが、選択肢の数だけ正しさがあると思っています。そしてその中の一つを自分が選んだからこそ、それが正しいと「思って」います。

しかしその選択自体は、どうやって選択したのでしょうか。本当に不羈奔放に選択しているのでしょうか。おそらく奥底まで観察し続けると、それまでの経験からの感情的なものでしょう。そして、それに合致している思想を選んでいる程度で、その考えのどこにどんな穴があるのかすら「考えたこと」すら無いのかもしれません。

これは権利とか自由とか言うフィールドからの正当性を根拠にしていますが、絶対的な理というものは自由選択が効くはずがありません。

抽象度の違い

そういうわけで、次元のフィールドが違います。これは抽象度の違いです。

「食事を摂ろう」とするとき、牛丼かラーメンか、それともパン屋のパンか、などなどたくさんの選択肢があります。

その中で例えば「牛丼にする」というのは自由選択の範囲です。

牛丼を選ぶ時に吉野家か、すき家か、なか卯か、松屋か、もしくは街の定食屋かというのは選べることです。

しかしながら、「食事を摂る」ということは、根本的に何かを口から入れて胃腸で消化吸収してエネルギー源を摂取するということです。

そこで、例えば栄養価のない砂利などを口から摂取することをもって、「食事を摂った」ということにできるでしょうか。できません。

「燃えるものなら良いんだ」ということで、ガソリンを飲んでいいのでしょうか。

言論の自由は自由選択が可能な範囲だけです。

そういうわけで、世の中にいくら主義や思想があろうが、「それがどうした」ということになります。役に立たないものは捨てても問題ありません。

むしろその「意見」が重荷になっていくでしょう。

それに気づいた時、「言論の自由があると思っているからこそ起こる意見」が重荷だと気づいて捨てた時、その先には本来の自由が待っているはずです。

言論の自由 曙光 353

Category:曙光(ニーチェ) / 第四書

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