生きていて厄介になるものが罪悪感というものです。
本来これはあってもなくてもよいですが、感覚のようなものなので、無駄といえば無駄、思考や習慣の産物と言えばそれに当たるものです。
あってもなくてもよいというのは、「無くそうという努力がそれを支える」という構造があるのと、次の理由によります。
罪悪感などあろうとなかろうと、どちらにしても現象はさほど変わりがなく印象が変わる程度です。しかし、現実変更の要だという重要性を置くと、その歪みが現象を歪めます。
ただ、脱・罪悪感で多少なりと抵抗を突破することはあるので展開が変わることはあります。しかしそれは些細なことです。
これから脱することが「安穏」になります。
しかし、脱することと消そうとすることは性質が全く異なります。
そのような感じで罪悪感について触れていきましょう。
倫理・道徳と罪悪感
何度か僕のところ(本ブログ)に「こんな状況をどう思いますか!」と鼻息荒くやってくる人がいました。たいていは宗教が絡んでいる人たちです。
世界の貧しい国の子どもたち、戦争の犠牲になる人達、経済的理由で命を奪われる動物たち⋯
時には動画リンクを送りつけてくる人もいました。
いやもちろんわかりますし、憐れに思う気持ち、どうにかしたい気持ちというのを持つこと、慈悲のこころを持つことは良いのですが、こうした倫理・道徳について触れるなら、ゼロから徹底的に考えてみなさいということをいつも思っています。
ゼロから考えるというのはいくつかの方向があります。
ひとつは哲学領域です。
この世界、心、現象、すべてを定義してからでないと、現象にたいする識知が歪みます。言語的定義が難しくてもせめて言語、論理の限界まで突き詰めてからにしましょう、というようなことです。
もう少し浅いレベルで考えた場合、つまり、倫理的、道徳的、善悪、正義等々で考えるにしろ、もっと抽象度を高めてから論理展開しなさい、と思ってしまいます。
ちなみに、法や世間的道徳など、人間社会というものが前提になっているので、さらにレベルが低くなります(人と人との揉め事の落とし所という程度ですから)。
ということで、今回はまず松竹梅の「竹」程度の倫理的、道徳的、善悪、正義のレベルから進めていきます。
罪悪感なき犯罪
僕たちは生きています。
生きているということは、世間的な視点で考えても、生理レベルで免疫が働いています。
生きているだけで細菌を死滅させています。
お腹が痛くなりました。
善玉菌を投入し、悪玉菌に対して都合の悪い環境を作りました。
悪玉菌は繁殖を抑制され、死滅していきます。
水を飲みました。
水の中に含まれていた細菌は胃酸で死滅し、水分をきちんと取ったことによって唾液量が増え、口腔内の細菌の一部が死滅していきました。
どうしてそのことに罪悪感は抱かないのですか?
もし他の生きものの命を奪うことが犯罪とでも思うのであれば、どこからを基準としていますか?
これはかなり前にどこかの投稿で書いたと思いますが、相手が自分と近く、共感できるかどうかだけが基準ではないですか?
人に近い動物はその対象になりやすく、形状が異なる虫ならば評価は分かれていきます。さらに小さい生き物のことは頭にも浮かびません。
歩くだけで実は足下にいたダニか何かを踏み潰しているかもしれません。
意識に上っているかどうかだけではないのですか?
その戦争は目の前で起こっていますか?
画面越しに情報として取り込んで、感情的に妄想を膨らませただけではないのですか?
ただ、そう言うと、それを肯定している側の悪魔であると言うような論調になります。
そういう二元論ではないのです。
宗教的な教義や倫理学等々の文献などを拠り所とせずに、自分の頭で考えなさい。
と言いたくなります。
自己都合で他の生命の命を奪うことが犯罪であるとするならば、この罪悪感なき犯罪はどのように取り扱うのでしょうか?
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「では、あなたはそうした悲惨な状況を肯定するのか!」というヒステリーを起こす人がいます。
そうした被害的な構造については以下のように定義することができます。
無駄な感情のために無駄な殺生を行うな
誰が?
私がです。他の人のことは知りません。
自尊心獲得+変態的嗜好
では、はっきり言っておきましょう。
「罪悪感を感じる」というのは、罪悪感を感じて感情のダイナミクスを感じ、快感を得るということを目的としています。
たいていは嫌な感情に感じますが、罪悪感が起こる際に一瞬快感が走っていると思います。
さらに、悲惨な映像の動画リンクを送りつけて、共感させよう、思考を変えさせよう、とする行為は、自尊心獲得+変態的嗜好とでも表現せざるを得ません。
だいたい宗教やイデオロギーというものは、内的、外的という方向性の違いはありつつも、変化させて変化を確認して自分が安らぎたい、という属性を持っています。
イデオロギーならば、自分たちの主義が通った世界になったという実感によって自分たちの精神の騒ぎが落ち着き安らぐだろう、そこに幸せがある、という思考の産物です。
これが内側、主に解釈や行動様式で完結する場合もあれば、内側と外の状況との両方を条件とする構造になっているものが宗教です。
ここで先ほどの定義を持ち出します。
無駄な感情のために無駄な殺生を行うな
ということと同様に
無駄な感情のために無駄な情報を伝達するな
では罪悪感とは?
少し罪悪感の周辺をぐるぐると回ってみました。
では、罪悪感とは一体何なのでしょうか?
それは思考の産物であり、また、「意図的に感じようとしているもの」でもあります。
生存本能からの恐怖心から、それを克服しようという思考が起こり、様々な論理パターンが形成され、それから外れる時に鳴る警報のようなものですが、その警報が、「生きている実感」としての快感としても機能しているというようことです。
つまりどこまでいっても「生存本能」の都合です。
罪悪感がなければどうなるかと言うと、何でもやり放題です。
実際、凶悪犯罪などは、何かでそれがバイパスされています。
しかし、そうした構造を経由しないと、幸せでいることができないというところに誤謬があります。
