理想的な利己心

妊娠の状態よりも荘重な状態があるだろうか?われわれのするすべてのことは、われわれの内部で成長しつつある者に何らかの意味で役立つに違いない、という密かな信念のもとになされる! 曙光 552 序

利己的ということを考えた時に、「それは利己的であり、受け入れられない」と言っている人も、「常識」や「全体を優先する」という観念のもとなんだかんだで利己的であり、「利己的」という言葉は、あまり意味をなさない言葉でもあります。

社会的な合議の場なんかで利己的だと、周りから非難が飛び交うというくらいのもので、どうあがいても自己中心的でしかありえません。

利己心はもちろん、利己的な心であり、己の都合、自分にかかる利害のことしか考えずに他人の事を考慮に入れないということにはなりますが、いずれにしても人の意識など自己中心的であり、意志決定など自己都合でしかありえないのです。

利己的な自己犠牲

利己心は「利己的な心」ということになりますが、この「利己的」という概念は、己の利益を優先するというような意味を持ち「利他的」の対義語としての位置づけにあります。

しかしながら、「蓋を開けてみれば全て利己的である」という感じで、傍から見ると利他的でありそうな行為や動機をよく観察すると、一切の意図は利己的であるというふうに捉えることができます。

「自己犠牲」みたいなものも、「自己を犠牲にして利他的に」という一種の信念に沿っているので利己的です。その人の信念に沿った利己心という事になりましょう。

「資金面もカツカツになりつつ、家族が止めても、慈善事業に奔走する」という場合は、すごくわかりやすいかもしれません。

慈善事業を手がけること自体は利他的ですが、一種の経済的自己犠牲をもってしてまでそれに奔走しようと思うことにも動機があり、その動機に沿った行動を取っているのだからどうあがいても利己的であり、利己心であるという感じになります。

利他的の「他」、利己的の「己」

基本的に利他的が賞賛されるのは、聞いて賞賛している側が「他」であり、自分たちにとって都合がいいからです。

逆に「自分中心でいくよ」と言われれば、「他」である周りは「利己的に」都合が悪いというだけです。

ただ、どうあがいても利己的であるのは理屈上仕方ないとしても、相手の感情を感じる自分の意識を穏やかにするという意味でもなるべく双方がすっきりする方法を模索すべきでしょう。もしくは関わらないことです。

AかBか、という選択になるとAとBしか見えません。

でも、そうした二元論を超えてCやDやEも見つかるかもしれない、というよりたいてい見つかります。

無駄な属性、無駄な論争

よくいろいろな論争がありますが、論争に決着を付けてそれでどうしたいのかよくわからないものがたくさんあります。

WindowsかMacかというようなものも、別に使いたい方を使えばそれでいいだけのはずなのに、どこかしら無駄な属性がつき、無駄な論争が起こっています。それも消費者の間でです。

開発者側なら、そうした長所短所を研究しつつ、新しい付加要素などを模索するのもいいですが、ただ使うだけの消費者が論争をしているところに無意味さがあります。

それは、「野球はどこのファンだ?」と聞いてくる人も同じです。

もしそうしたことを聞いてくる人がいたら、

「ピアノはどこのファンだ?」

と聞いてあげましょう。

いえ聞かなくてもいいです。

「畑が違うね、さようなら」

でもいいですし、他のことを話すに越したことはありません。

理想的な利己心 曙光 552

Category:曙光(ニーチェ) / 第五書

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