本格的な哲学空間の前に

ある程度、精神の状態が変化しつつあっても、数回寝て覚めればまた元通りになるのは、体に張り巡らされた神経的な基準に引き戻されているから、ということで、本格的な哲学空間に向かう前に、この体の基準を徹底的に変更していくとよいのではないか、と思うことがあります。

ある日、あることに納得してあることを決めたとしても、数日、数週間経てば、なぜかその納得に納得しなくなるというような現象があります。

これは結局、体が慣れ親しんだパターンに引き戻されるというようなことが原因になっています。

頭といえば頭ですが、頭と神経は不可分なので、一応体の記憶というような表現にしておきます。

「身体レベルの無意識の反射が、元に戻してしまう」

ということです。

なので、一種の根気が必要です。

そのため、工夫としてのアファメーション等々が提案されたりするわけですが、まずはマイナス要因の破壊から始める必要があります。

明るくポジティブなことだけでなんとかなるのは、マイナス要因が少ない「ぼっちゃん」のような人だけで、様々なマイナス面の体感記憶がある場合、まずはそちらの「浄化」の方が先決です。

それすらも含めて、最も良いのはヴィパッサナーです。

「身体レベルの無意識の反射」すら、集中力の高まりに応じて無効化されていきます。

そしてそれが続けば、「体の基準」も変化していきます。

なので理解だけでなく「修行」というものが提唱されているわけです。

もちろん個別に「反射」を解除していくこともできますが、キリがありません。

また、象徴化して破壊したり浄化のようなことをしてくこともできますが、体に染み付いているので、何度か寝て冷めてを繰り返すとまた元に戻ります。なのでそうするにしても根気が必要です。

日々、何かにエネルギーを吸い取られています。

吸い取られていることに気づくと、その引力は徐々に弱まります。

しかしながら、大切なのは、その気付きを繰り返すことです。

気づいた瞬間に、主体感覚が無くなる視点に立つというのがいいですね。

他者と比較すれば、私といえば私、しかし、ただ、その世界の中で動いている主人公としての私であり、私そのものではない、というような感じです。

その客観視した「私」は一体何に基づいて、その行動をしているのかを観察してみるというのも面白いかもしれません。

一日のうちで、どの神経伝達物質が、どのような変化をしながら、どの程度出るということを目指して、その行動を取っているのか?

どのホルモンがどの程度出て、体のどの部分にどの程度の疲労物質があることを「基準」とし、それに向かうために、どのような意志決定をしているのか?

という客観視です。

平穏で健康体であるほうがいいはずですが、何かの変化を感じないと「私とは呼べない」という基準があり、一定の変化率を求めて、一日の行動を決めているような部分があるかもしれません。

意図的に意外性のあることを連日で行うと何かが揺れ動き、破壊されていくかもしれません。

例えば普段、風呂に浸からずシャワーのみ、という人が、二週間ほど毎日草津温泉に入るとどうなるでしょうか?

おそらく、世界を失ったような虚脱感が来るのではないかと思います。

一種の「私」の喪失を感じてしまうのではないかと思います。

根気がいる、といっても体育会系的な根性論ではありません。

そうした根気です。

おそらく自我はそれに抗います。

「そんなことをしても意味などない」

と騒ぎ、一日二日でやめようとします。

しかしながら、「体に蓄積したもの」を出し切り、「全身の神経が慣れ親しんだもの」を脱することがないと、意識で理解しても、また元通りです。

多少の変化はありますが緩やかです。

そんなことを「権力への意志」に出てきた「ミッチェルの治療法」という部分的な箇所から思ったりしました。

かつてはスルーしていましたが、改めて「誰?」と思い調べてみると、「とにかく休まんかい」ということを徹底的に言っていた人のようです。

ニーチェはミッチェルを引っ張り出し、「弱者が来世に期待をかけ、自分たちは試練の中にあり、とても高潔で…」というような自惚れ空間に入る前に、体を休めて健康体になってから考えろということを「キリスト教」批判のひとつとして呟いていました。

「よくわからんことをグダグダ言う前に、ミッチェルの治療法をすすめるけどね」というような感じです。

ニーチェもそんなことを考えていたということは、ちょっと面白かったですね。

先日から、多少なりと飲んでいた薬を断薬しています。

日中の「制限感」や、夜間の「つまらなさ」は、もしかすると、そうしたものの影響ではないかと考え、「気絶ではなく睡眠」になるために処方されていた薬を一気に止めると「波」は危ないレベルですが、「制限感」も「つまらなさ」も無くなってきました。

それらに応じて、それまで意図していた、高負荷、高刺激も求めることはなくなりました。

高刺激といっても「カレーなら激辛」とか、そうした程度です。

徐々に波も無くなってきました。

ただ、先日は、少し長距離の散歩に出ている間、歩きながらマイクロスリープに陥りそうになり、予定していた半分の距離で帰ってきました。

とにかく腹が減ります。

ということで、何かの準備をしている感があります。

これはおそらく「本格的な哲学空間」に没頭するための下準備です。

「まだ微妙に剥き出しの部分が残った神経」が修復された時、本格的な哲学空間に入ろうと思います。

Category:miscellaneous notes 雑記

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