物事がわかる時はいずれにしても「なぜだかはわからないが急にわかった」という構造になっていたりします。
散々考えたりして少し間が空き、再度取り組んだ時に「見える!」という感じで「なぜだかはわからないが急にわかった」という感じになったりもしますし、現役で考えているときでも実際に「わかった!」となる直前までは理解できなかったということになるので、その「わかった!」の瞬間においては何か光が降りてくるような感覚で理解をしたりしているわけです。
楽器の練習においても、同じような反復練習をしている間、「うまくいかないなぁ」と思っているのですが、練習に間が空いて久しぶりに手にとった時に「なぜかスラスラ指が動く」という感じになったりしますし、「うまくいかないなぁ」の最中に「なんだか今はうまくいったぞ」という瞬間を味わったりすることもあります。
「そのうち嫌でもわかるだろう」と思えば憂いはない
ということなので、全く知らない分野に飛び込んだりする際にも「そのうち嫌でもわかるだろう」というような気分で取り組みだしたりするわけです。
そうなると何事も特に憂いはありません。
さらに「いきなりできてしまう」というは少年漫画のヒーローのライバルあたりのキャラのようでカッコいいように思えますが、「初めてですからね~」と頭を掻きながらやり始めたほうが結局人に好かれてしまうという感じになっています。
「今はまだはっきりとわからないが、そのうち嫌でもわかってしまうだろう」
という感じで、ひとまず素直に進めていくというような感じです。
基礎が分かれば応用までできてしまう
そうはいっても、ある程度「気づく力」がついてくると、「初めてでも基礎が分かれば応用までできてしまう」というような状態になってしまいます。
組み立てていくものの基礎パーツが揃っているのであれば、一応様々なパターンを組み立てられてしまうというような感じです。
同時に「ある派に属しているから」と言うわけでもなんでもなく、その反対の派の人が説く論調に「執著から盲目的な偏見が生じているなぁ」ということもすぐに分かってしまうようになります。
全体像がわかっていれば、偏りもすぐにわかってしまう、という感じです。
知らぬ間に理解
ということで色々と振り返ってみると、自分でもなぜ社長仲間の等々、人の経営の相談相手になったりできるようになったのかがよくわかりません。
雑談の中から色々と考え、質問し、ということを繰り返すたび、知らぬ間に理解していったのでしょう。
世の中には何かしらに特化したような形でコンサルタントになろうとする人たちがいます。しかしながら、蓋を開けてみると、誰かしらの本を数冊読んだだけで、精神論と小技を知っている程度だったりすることがよくあります。
その手の人達は、いろいろと営業活動を頑張ったりもされていますが、ほぼ例外なく相手にされていません。ご本人も精神論に感銘を受けて変性意識状態になっているだけという感じなので、周りとしては違和感を感じてしまうのでしょう(それでもその熱意に感染してしまう人たちは一定数います)。
という中、「コンサルタントではないですよ」と言っているにも関わらず「コンサルティングってお願いできるんですか?」と声がかかったりします(別にそれを本業にしているわけではありません)。
しかしながら、相手の方は全く異なる業種の方だったりもするわけです。僕は、特に「○○を専門的に学んだ」というわけではありませんし、コンサルティングサービスをなんとしてでも売りたいなどと思ったことは一度もありません。
「これを学んで、マスターして、売り物にするぞ」ということを思っていないのに勝手に事実が出来上がってしまったわけです。
母の教育法
そうなってしまう根本にあるものは、我が家、というよりもうちの母の教育法にあったのかもしれません。
特に勉強しろと言われたことは一度もないのですが、
「人の話を聞きなさい。なるべく理解するように努めなさい。わからなければわかるまで質問しなさい。それでもわからなければ、それはそれでいいですよ」
というような、たった一つのルールだけがありました。
その「話」というのは、論理上の構造だけでなく、気持ちも含まれていました。「どうしてその話をしているのかということを含めて理解せよ」ということですね。
別に破ったからといってどうなるものでもありませんでしたが、物心ついた頃から小学校を卒業するくらいまでの間、そうしたことだけを繰り返し言われ続けました。なので今でも覚えているわけです。
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吾が学ぶ所。
「人の話を聞きなさい。なるべく理解するように努めなさい。わからなければわかるまで質問しなさい。それでもわからなければ、それはそれでいいですよ」
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