内部循環とひたすら歩くこと

僕はよく歩きます。昔からよく散歩にでかけます。それは自然の中だけといった感じではなく、近所でもよく歩きます。

ネパールでのトレッキングのように数日かけて歩くこともあれば、家の近所を5分程度歩くこともあります。

また、歩くだけでなく、自転車やバイク、そして車や電車で旅に出たりもします。

中高生の時は急に「自転車でひたすら国道9号線を走ろう」と友人を誘う形で丹波町まで行ったり、「ふらっと行くか」と自転車で大津市まで行ったりという感じで遠出をすることもしばしばありました。旅の予算としては飲み物代くらいでいいので数百円です。

そのような感じで常に軽い散歩をしたり、旅に出たりということは、昔から今でも続けている習慣です。

歩くことで血液循環も良くなり、セロトニンも出るのでうつ症状を改善するという感じで語られることもありますが、そうしたことは適当に知っておく程度でいいのでひとまずは歩いてみましょう。

何事も「内部循環」を繰り返すとどんどん悪い方向にいきます。呼吸と同じように「出してこそ、入ってくる」という自然の循環を不自然に停滞させることは、物事を悪化させていきます。自然界においても、流れがなければ水は腐るといった感じで、これはいたるところで見られる現象です。

で、体的な都合で言えば、血液の循環は心臓だけでなく、呼吸と各筋肉によっても行われているので、あまり体を動かさず、緊張して呼吸も浅くなったりすると、酸欠になる上に心臓だけに負担をさせることにもなります。

本来ある程度体を動かすという前提でそうした体の構造ができあがっているはずなので、デスクワークばかりになるとどうしても血の巡りが悪くなってくるのでしょう。

私事で言えば、普段はデスクに座り続ける感じのもやし生活ですが、その分ある程度歩くことにしています。

義務付けているという感じではなく、歩かないと「頭の内側が痒くなってくる」という軽い頭痛が起こるので、その兆候が見られた時は自然と散歩に出たくなり、気づけば外を歩いているという感じになっています。

限界や転機における体の再生

外との交流

本来、自分と外界との境目というものは意識が作り出している虚像のボーダーですが、そうしたボーダーを保持しながら、内側で意識なり何なりが内部循環すると、どんどん悪い方向に向かっていきます。

ということで、なるべく外に出すということをしたほうが、うまく外との循環がなされるのでそれに越したことはありません。

よく起業家のような人が、社会は面白いというようなことを言ったりします。しかしながら、その人達はあまり気付いていないのだろうと思いますが、そうした起業家の人とか、いろいろとやることが変化する総合職のような人と異なり、毎日ルーティンを繰り返している人たちにとっては、社会はつまらないものに見えているはずです。

なぜなら、同じような情報が内部循環しているからです。そしてそれを変えようにも環境的に変えにくいということで、「呼吸する間口があまりない」ということになっています。

しかし慣れ親しんだことなので、特に危険性もなく楽なのでその中にとどまろうとします。ただ、一方で情報の内部循環ばかりが起こるので、気が滅入ってくることもよくあります。

起業家の人は、それが「企業が抱える問題」であっても、次々に新しいことに触れる機会がありますし、社長でなくてもあちこちに飛び回っている人は同じように新しい人と出会ったり、新しい土地に行ったり、新しい情報が入ってきたりもします。

何かを新しくやったり、誰かと話したりという感じで、外に出しては、外から何かが入ってくるという循環が滞ることなく起こっているからこそ面白く感じるということになるでしょう。

引きこもりは内部循環の極み

そう考えると、引きこもりは内部循環の極みということになります。病気療養のためという感じであっても「寝ていれば休まる」という感じで回復してくれるレベルというのには限界があります。

新しい情報という意味では、ネット情報などに触れることもひとつの情報になりますが、それはあくまで「入る方」であり、「出す方」が圧倒的に足りないという感じでバランスが悪かったりします。

では、出すということであれば、「ツイートでもすればいいのか?」ということになります。それでもいいですが、言語情報のみの吐き出しでは「言語や意識」というチャネルのみの吐き出しになってしまいます。

人との会話というのはわかりやすい外との交流であり、内部循環を防ぐ最も理想的な方法になりますが、そうした時においても、言語のみのやり取り、電話などの音声言語のやり取り、直接対面では大きく交流の間口が異なってきます。

しかしながら、人と話すことは時に面倒だったりもします。相手のエゴに付き合わねばならないというような感覚を覚えるときもあるからです。

散歩でも「外に出す」ということが叶う

しかし、外との交流において、対象が人である必要はありません。

ということで、外に出すという感じで最も手っ取り早いのが散歩という行為です。基本的にリスクは少ないですし、何よりも自分のペースを保てるので手軽です。

外に出て歩くと、外気との交流が加速します。体と外気が交流を始めるという感じです。また、道端の草に触れてみても良いですし、遭遇した猫と話してみても良いかもしれません。

そのような感じで「外に働きかける」ということをした場合、逆に外が自分に働きかけてくれるようになります。といった感じで内部循環の打破になるという感じです。

そうして内部循環から外部との交流にシフトしていけば、どんどん自然な姿に戻っていきます。

その上で、近所の人とかお店の店員さんなどに挨拶をするくらいの感覚で「外にエネルギーを出す」ということをしていけば、どんどん外からエネルギーが入ってきます。

ということで、まあ「散歩すら億劫だ」という時は相当不自然な状態になっているということになります。

そんな時は、「重い腰を上げる」という感じのときだけ少し無理をしてもいいので、ひたすら歩いてみましょう。

適当に方向を決め「この方向に進んで10個目の自販機を発見したら家に帰る」という程度でいいでしょう。

夜に歩いていると、アスファルトが意外とキラキラしていることに気付いたりします。

そう思うと、月明かりや電灯、人の家の窓から漏れる明かりとったものだけでなく、目に映る全てが自分を照らし出していたことに気付いてしまうはずです。また、見えていないだけで自分の後ろ側も全て何かに照らされているということにも気付いてしまいます。

そして同時に、仮に間接的であれ、自分もそれらを照らしていたりするということに気付いてしまうでしょう。

Category:うつ、もしくはうつ気味の方へ

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