あらゆる罪が贖われ償われることを要求したような、永遠の必然性は全く存在しない。― そのようなものが存在するというのは、罪として感じられるすべてのものは罪であるということが妄想であるのと同じように、恐ろしい、ほんの僅かな部分だけしか有益でない妄想であった―。物ではなく、全く存在しない物についての意見が、人間の心をそのように乱したのである! 曙光 563
世界平和を夢見る人たちは数多くいます。おそらくそれは今現在だけの話ではなく大昔からです。
社会的に見れば、争いの種はほとんど「君主」にあります。
国と国の戦いは国同士の争いであり、その構成員である個人と個人の戦いではありません。
三酔人経綸問答
このあたりは、中江兆民氏の「三酔人経綸問答」が非常に良く面白くできています。
君主という者同士が戦っているのであって、国という概念すらなければ、つまり誰かの所有物的な国ではなく、ただその場所にそれぞれが住んでいるだけであるという構造になれば、個人としては戦いの勝敗に関するメリットとデメリット、リスクを考えた時に争いを選ばないという感じの構造になっています。
だからこそ完全な民主主義になるべきだ、というのが「紳士くん」の意見です。君主不在であれば、争いごとににメリットがない個人ばかりになる、というのが主たる意見です。
一方「豪傑くん」は、誰か一人でも裏切れば、のほほんとしているその他の全員が支配下に置かれる、だからこそ、各々が武装して均衡状態を取るが良い、ということを言っています。
まさに性善説と性悪説というテーゼとアンチテーゼを並べた論調です。囚人のジレンマ的であり、確かに全員が全員を信頼していれば全員に平和が訪れるものの、完全に信頼できるという保証はどこにもなく、裏切られることを想定し、危険性やコストもかかりつつ、各々が武力で均衡状態を取ろうとする形です。相手が強いならこちらも強くせねばならぬ、武力を強めるためにはより多くの領土が必要になるというような論調です。
そして二人の論争を聞いていた「南海先生」は、それぞれの理想論、極論はさておき、現状を見てひとまず君主はいつつも政治は民主主義的である立憲主義を取るのがよかろうと言っています。そして急な理想論を掲げて無理をすること無く100年後により良くなるように徐々にシフトさせていくのが現実的だというあっけない答えを言います。
所詮大きな争いごとなど、何かに属している帰属意識があるからこそ、それに同調するにすぎません。
ライバル会社との争いごともそうですし、国家単位でも、都道府県単位でも、お隣の家との争いも、何かの集団意識があるからこそ起こると言っていいでしょう。
個人と個人の争いというものを超え、団体と団体が争う場合、本当の意味で言えばその争いに勝ったとしても、その構成員である個人にはそれほどメリットはありません。むしろ負けたときのダメージのほうが大きくリスクで言えばハイリスクローリターンです。
ライバル会社との争いを例とすると、過労死寸前でライバルと争ったところで、多少の手当はあっても、利益を一番持っていくのは株主であり、株主は「会社を所有している」という権利だけで、ローリスク・ハイリターンを決め込んでいます。リスクと言っても資産が目減りするくらいです。命を落とすかもしれないというようなリスクはありません。
この構造は、君主国家でも同じです。
隠れた君主制
そして民主化が進んだとは言え、世界的に見てもいまだに隠れた君主制のままになっています。
税金を払わなかったら資産を取り上げたり、ごまかしたら犯罪になります。
しかしながら、よくよく考えると、自分を動物だと思って本当に客観的に考えてみると、それはただのカツアゲにしかすぎません。
土地を買って自分のものになったと思っても、その分だけ税金を課されます。ということはある意味でやはり「借りている」というような構造になっています。
他の人に対しては「自分のものである」ということを主張できるかもしれませんが、「私のものなので税金は払いません」ということは通りません。
ということは、ある種独占的に「借りている」のと同じことです。
一定のパーセンテージを掠り取る構造
さて、近年大きく成長した企業などを見渡してみた場合、急成長した企業の多くは、「人の活動の仲介をし、一定のパーセンテージを掠り取る構造」をもっているはずです。
古くは住友ですし、今では当たり前ですが株なら野村證券です。最近ではヤフオクでもそうですし楽天なんかはわかりやすいはずです。
安定的に伸びたところは、結局どこかしら不動産業的なところを持っています。百貨店でもその実態は不動産業ですからね。
いかに自分たちのリスクを減らし、人と人の活動の間に入って小銭を抜き取るか、というところが大きくなる企業の特徴です。
税金はその極地
そう考えると税金はその極地です。
人が稼いだ分は所得税、企業が稼いだ分は法人税、人が使った分は消費税という感じです。
何かしらの人の活動に関して、その活動の分に対して一定のパーセンテージを掠め取るという構造は、社会の中で数多く存在します。アメリカは通貨発行の際にイギリスにという感じです。
特に表立って支配はしませんが、一定のパーセンテージだけは確実に懐に入れていくのです。
そうしておけば、表に立って怒りの矛先にならずに済むからです。
自分で物を売れば、クレームが来たりもしますが、お店と個人を結ぶだけの楽天にはリスクがほとんどありません。個人と個人を結ぶヤフオクにもほとんどリスクはありません。
「場所を提供している」
ただそれだけだからです。
それが以前までは「土地や建物」でしたが、人の意識が物理空間から情報空間に移ったということでインターネット上になっただけです。
そうした時にモノを言うのは、物理的な場所ではなく「人の意識のある場所」です。
人の意識のある場所
メディアなどが何もなかった時代は、人が集まる場所でした。
そしてメディアが登場してからはメディアでした。
人の意識と人の意識を繋ぐ「仲介」が大きなビジネスになりました。
人の意識は場所にはなく、画面の中になりました。
さらにインターネットが普及してからは、どうなったでしょうか?
人の関心と関心を繋ぐ仲介をして広告料をもらう。
…
検索という行動と人の関心を得たい人たちとの間を取り持つGoogleの急成長ぶりがその証でしょう。
社会と自分
さて、短文で終わる予定が長々ととりとめのない散文のような形になりましたが、「倫理的世界秩序の妄想」ということで、社会と自分の関係について書いておこうと思います。
何となく政治や社会についてのことについて触れていきましたが、あえていえば、そうした社会の構造と自分を関連させないということが重要になってきます。
「政治的無関心はいけない」
ということを言う人がいますが、まず、社会が個人よりも上にあると思っているのではないでしょうか?
この世界は自分のものです。
しかしながら、そうした自分の定義の中に具体的に限定する概念が練り込まれています。
「日本人である」
というのは、分離です。
しかしながら、それは自分以外の人たちの都合でその他と分離された概念にしかすぎません。
すなわち、そんなラベリングは他人が何かを分類するときにつけた概念であり、自分以外の他人の中の世界で勝手に議論されている内容にしかすぎないのです。
例えば自分がAという学校に通っているとしましょう。その中の一部の人たちがBという学校の人とモメた、と。
で、「今から全員でBを潰しに行くぞ」と号令がかかったとしましょう。
自分と関係はあるでしょうか。
国家単位や地域単位で人を計るというのはこれと同じことなのです。
そうした無駄な属性は、全て本来の自分は欠落した状態の「他人の中の世界で自分に与えられた属性」にしかすぎません。
それを自分だと思うこと、それがアイツです。
だから全てが無駄な茶番です。
そうした社会的な仕組みやラベリングはさておいて、個人的に毎日を楽しみましょう。
倫理的世界秩序の妄想 曙光 563
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