ウジウジが続く時、そんな時は微妙なストレスが日々心身を痛めつけてきます。
変なウジウジが続く時、極論や極端な発想で思い切ると、意外とあっけなくそれが解決したりします。
友人や知人に相談なんかをして「そんなことは関係ない」とか「気にするほどのことじゃない」と言ってもらったとしても、なんだか頭では理解することができつつ、心の内では納得できずにウジウジが続く、そんな時があります。
ウジウジしている時というのは、少なからず葛藤があるときです。本当に諦めていたら気にもならなくなるはずですし、若干の期待のようなものがあるからこそ手放しきれずにいるという感じになっています。
しかしその一方で、様々なリスクとかが頭に浮かんできて、少なからずそれをやってみたかったりするものの、いまいち思い切って前に進むことができないという状況になっていて葛藤状態になっているという感じです。
そんな時は、思考を利用して物事を極端に考えてみましょう。
極端に考えて極論を用いることで「リスクを受け入れる」ということができるようになるはずです。
極論や極端な発想
意識、そして生存本能は失敗を恐れます。失敗を回避するということが最重要課題であり、「今まで通りでもやってこれたのだから、わざわざ危険なことはするな」という方向性で考えます。
仕事上で失敗して先方に謝りに行く時、「死ぬわけじゃない」という言葉を上司が部下にかけることがあります。本でも出てきたりしますし、実際に友人もそうして上司に声をかけられた後、一緒に先方に謝りいったことがあるそうです。確かに上司のその一言で「そういえばそうだなぁ」と思って気が楽になったと言っていました。
ここで、極端な発想を使ってみましょう。
基本的には謝りに行くということが演劇のワンシーンだとすれば何てことはありません。そういう役割を演じに行くのだという感じです。
相手から罵声が飛んでくるかもしれませんが、それは単なる音声にしかすぎないので、究極的に損害としては鼓膜が破れる程度ですし、もし殴られたとすれば刑事事件なので相手が悪くなってしまいます。
そして考えてみると「その件」自体は、いつか何かしらの形で終わります。決着がつくという感じです。
最悪の最悪は、取引が停止になって損害賠償請求をされて、その責任をとって退職金なしの懲戒免職+個人への損害賠償請求くらいです。
といっても、そこまで行くとそのあたりは一方的に決められるわけではないので、裁判が絡んでくるでしょう。
ということは、最悪の最悪で、長年勤めた勤め先をクビになり借金ができるというところくらいです。いいところ同業ではやっていけないので、異業種で勤め直すという程度でしょうか。
その状況でローンがあって、失業により支払いが滞ったとして、家も失い、その延長で家庭も崩壊という感じなったとしましょう。
それでも、この体はおそらく無傷でいます。家族にビンタくらいはされるかもしれませんが、おそらくその程度でしょう。
ということは、
「動物としてはそれほど困っていない」
という感じです。
いくら失業して借金まみれになっても、この体はピンピンした状態で残っています。
するとそこからまた再スタートできるという感じになります。
最悪の最悪でそれくらいなのだから、何だかしれているという感じがしてこないでしょうか。
さらに極論で考えれば、遠くに引っ越して日雇いで食いつなぎながら、借金は踏み倒し…ということも理屈上は可能です。
ゼロに戻っただけ
それどころか、例えば仕事上の相手と喧嘩になって契約がご破綻になったとしましょう。
でもその場合、確かにしばらくの間の労力というものが直接売上にならなかったと言うだけで、ゼロに戻っただけではないでしょうか?
そして、もし「しばらくの間の労力」を活用しようと思えばいくらでもできるのではないでしょうか?
喧嘩になりやすい場所を予め契約上で取り決めておくとか、嫌な客の見分け方を分析して、客層を変えるにはどうすればいいかとか、そのような感じでいくらでも活用することができます。
「費用をかけて集客して、話を進めていたのに」
ということすら思ってしまうかもしれませんが、そうした出会い自体は一過性のものであり、実るに至らなかったとしてもゼロに戻るだけです。
できる限り実るに越したことはありませんが「100%実るものなのだ」ということを思っている方が異常です。
じゃあ感覚的に「50%位は成功する」と思っていれば、「ああ、この人は途中までは成功可能性があったけど結局ダメな方の側だったんだな」ということを思えるはずです。
それで、可能性を上げようと思うのは良いですが、その時に「この手の人をハナから相手にしないというのもアリだ」という発想を持つことを忘れてはなりません。
「確率を上げる」と言えば、分子を上げようとする傾向がありますが、分母を下げるというのも一つの手ですからね。
そのような感じで、うまくいかなかったとしても「元々あってないようなものじゃないか」という感じでゼロに戻っただけだと思うことも可能なはずです。
で、極端な発想をすると、全てが「あってないようなものじゃないか」という感じになります。諸行無常ですからね。
「出会った瞬間に別れることは確定している」という事実からは逃れることができません。
だから、面接でダメだったとしても、「ここで勤めて定年でさよなら」ではなく「今この瞬間に別れが来ただけ」という感じです。
元々、その場所で勤めようとしたのも動機を考えれば曖昧です。
曖昧なものから発生した行動が、単にその場では実らずに、その動機が生まれる前のような状態に戻っただけ、という感じです。
まあ、一つの可能性が潰れたということでもありますが、元々その行動を起こしている時は、他の可能性のことは潰していたわけなので、他の潰れていた可能性が再エントリーしたり、新しい可能性が表面化してきたりと、状況が変化するだけです。
誰か好きな子に告白して振られたとしても、それまでの間は一応他の可能性が潰れていましたが、無限の可能性が広がったという側面も持っているという感じです。
失うものといえば、その子との「程よい関係」くらいです。
どうせその関係も永遠に続くことはありません。
その子との出会いも今の状態も、事の発端まで遡るとたまたまと言えばたまたまです。
そう考えると、失敗しても別にゼロに戻るだけ、つまり「その人と出会う前のフリーの状態に戻る」くらいなので、特に問題はないはずです。
ウジウジしていても、状況は変化していきます。
さあ、思い切りましょう。
…
相手の都合と自己責任
まあそのような感じで、ウジウジの対象について極端に考えていくと、それほどリスクのあるものでもないということが見えてきますが、社会関係におけるものであるのならば、やはり相手には相手の都合がありますし、全て自己責任になります。
もちろん相手には相手の都合があるので、いくら自分がリスクを取って挑んでみても、相手にされないという場合はあります。
そこから発生する全ては自分に返ってきます。関係が変化するのならばその変化、仕事の失敗なら仕事の失敗の責任です。
ただ、自己責任になるということは、失敗した時の責任は自分が取らねばなりませんが、嬉しい結果も全て自分のものです。
例えば、親御さんの用意してくれた家業の仕事を継いだということは、遠方まで面接に行ってダメだったとか、そうした失敗のようなものの責任を取らなくて良い分、その仕事に就いたことの喜びは半減します。
自力でやりたいことを見つけて、結果その仕事に就いたのなら全て自分の喜びです。
民家の前で子供が奇声を発するのは自由ですが、僕のような人に説教をされるというのも自己責任です。
まあ直接的でなくとも、その空間に誰かがいる場合には、それぞれに都合があるということです。
自己責任の空間
だから時に実らないときもありますし、思ってもいないような返り討ちを食らうこともあります。
でもその自己責任の空間は、その責任の分だけ自分に結果を返してくれるのです。
ウジウジして責任を負わずにいようと思っていても、必ず状況は変化していきます。
「大丈夫な理由」などを見つけなくても、とりあえず何かをすれば何かが返ってきます。
それが自分で為したことなら全て自分の財産として、実体験を通じたデータとして返ってきます。
極論や極端な発想を用いると、「ああ、最悪それくらいか」と思えるはずです。そして大半のケースではそんな最悪の事態は訪れません。想像の1/10くらいの被害しか無いのが普通ですし、それどころかだいたいは事が良い方に転がっていきます。中途半端にウジウジして細かなストレスを日々受け取るよりも、リスクを受け入れたほうがよっぽどマシです。
自己責任の空間の喜びを奪われないために
実質的には世話をしてもらった方が楽でリスクもないという感じになりますが、裏を返すとそれは自己責任の空間であるからこそ享受できるはずの喜びを奪われてしまうということにもなります。
あまりに「全て自分でやったのだ」という思いがあるとそれは傲慢となりますし、もちろん他人の好意を受け取るということもいいですが、それも行き過ぎると依存をもたらす上に「自力で達成した」という達成感をはじめ、自己責任から起こる喜びを相手に奪われるということにもなってしまいます。
例えば、おじいちゃんが孫におもちゃを買い与えるというのは良いですが、それをもっておじいちゃんは「おじいちゃん大好き」と言ってもらえたりするので、嬉しい感情を得ることができたりします。
しかしその裏では、孫が自力で成し遂げた時の喜びを自分の喜びのために奪っているということも考えられます。
逆の立場で考えると、労すること無くおもちゃが手に入るのだからありがたいという一方、自力で手に入れた時の喜びを奪われたというふうに考えることもできます。
まあこれらも洞察による一種の極論です。
そのような感じで、いろいろと考えてみると「ありがたいけど…奪われてたまるか!」という気持ちにもなってきたりします。
まあウジウジしている時はウジウジしている時で何か大切なことを頭でまとめ上げているという瞬間であるのかもしれないので、それほど気にする必要はありません。
ただ何か突破したいのにできないという時は、極端な発想を用いてみると思い切れたりするので、「もうウジウジはうんざりだ」という時は、極論を検討してみましょう。
最終更新日:
おはようございます。
いつも貴重なお話しを聴かせていただきありがとうございます。
今回の記事は多くのことに気付かせて頂きました。
中でも、「確率を高めるために分子を増やすのではなく分母を減らす」というお話しに開眼させて頂きました。
私は昔から、何事も選択肢を多く持って取り組んでいました。
しかしそれは計画段階の選択肢ではなく、失敗した時の言い逃れ用選択肢でした。
心配ごとの数と言っても良いかもしれません。
そもそも、初めから期待をしないで自分ができることにベストを尽くしていれば良いんですね。
中途半端に期待をするので変な選択肢(心配ごと)が増えるのだと思いました。
人事を尽くして天命を待つではありませんが、その心境を持つことで「歓びの確率」も増えるのかと。
言葉足らずのコメントで済みません。
引き続きbossuさんから勉強をさせて頂きます。
コメントどうもありがとうございます。
「失敗した時の言い逃れ用選択肢」という点ですが、意識は状況の変化を拒み、リスク回避を最優先で考えますので、おそらくそれが普通なのだと思います。
もちろんその根底には生存本能があり、「自己保存が最優先される」ということが原因です。
新しい何かと出会うより、昨日までと同じような微妙な状況でも「今までやってこれたのだから、現状維持を最優先せよ」という感じで、失敗を回避することに意識が向きやすいという感じです。
といっても、自分が失敗を回避し、変わらずにいたとしても、周りの環境は否が応でも変わっていくので、だいたいジリ貧になって時に手遅れになるという感じです。