アフォリズム 321-330
- 321.狂人への恐怖からの無批判
- 322.お客の求めるところ
- 323.頭の腫れ
- 324.半端な並列
- 325.心が受ける痛み
- 326.慈悲による視野の広がり
- 327.精神の不調の要因
- 328.だらだらとした時間と集中力
- 329.現に起こっていることと妄想
- 330.妄想への対処
321.狂人への恐怖からの無批判
宗教が表立って批判されにくい要因として、一種の狂人への恐怖というものがある。信仰という狂気から、理性を飛び越えて何を仕出かすかわからない、というようなものが恐怖心を生み出し、「触らぬ神に祟りなし」というような構造を生み出している。
しかしながら、それらが正しいというわけでもなく、また、あまり関心がない市民たちには、本音では多少なりと狂人扱いされている。
322.お客の求めるところ
あまり社会経験がなくいきなり独立する者は、お客の求めているところ、相手の求めている様々な要因について見誤りがちである。
お客は、安価でハイクオリティのものよりも、「標準以上のものを適正価格で早く正確な時期に」というところを求める者が多く、こうしたものを見誤るものは、とりわけ「正確な時期に」というところの重要度を見誤る。
323.頭の腫れ
現象を解釈する前に、頭が腫れていないか再度確認した方が良い。
のぼせていたり、むくんでいたり、とがっていたりすると、判断するにしてもまともな判断ができず、また、「判断しない」ということもなかなかできない。
324.半端な並列
世間一般の「ながら」的な並列は一つの集中力を分散しているだけであり、同時進行的であるため時間効率が良さそうに見えるが、総合的な結果は非効率である。
325.心が受ける痛み
認識する働きとしての心が「痛みを受けないこと」が、ひとつの苦の消滅を示すものとなる。
「心が痛みを受けないこと」に着目して考えれば、「結果への期待」という執著を手放すことが苦の消滅につながることが見えてくる。
こうしたところから「行為のみが残る」ということの意味が見えてくる。
326.慈悲による視野の広がり
実社会的な有用性から考えても、慈悲というものは様々な概念の限定を取り払い視野の広がりをもたらすものとして機能するため、常に保持しておくのが望ましい。
一切の生命を対象に入れるため、検討に入れる範囲、見える範囲が広がるというのは当然であり、また、自己保存の意図による認識の歪みも取り除かれていく。
327.精神の不調の要因
精神の不調には様々な名称がつけられているが、大元の要因、根っこの部分は数少なく、本来、つけられた名称ごとに個々に対応するようなものではない。
328.だらだらとした時間と集中力
不快感を伴いながらだらだらとした時間を過ごすくらいならば、目の前の動作、現象に集中して観察し、集中力を高めた方が、効率の面でも理に適っている。
「捗らない」「やる気が出ない」「案が浮かばない」と、1時間も2時間もだらだらと過ごすのであれば、30分間「体感覚の無常性の観察」等々により「集中力を高めること」に集中し、その後数秒から数分で決断し、残りの時間で行動した方が物事はうまく進んでいく。
329.現に起こっていることと妄想
少なくとも今、現に起こっていることではないのであれば、過去にあった事実であろうが、未来に起こりうることであろうが、それは妄想の一つである。
330.妄想への対処
妄想が起こった時、これは妄想であると知って「妄想」と言い切ってやれば、妄想はそれ以上何もできず、消滅していく。
今現在、心が苦を受けないことが安らぎであり、今現に起こっていない現象の想起である「妄想」は、安らぎにとって何の役にも立たない。
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