いつもいつも「遠隔歯軋り」とは言いますが、
「なんじゃそりゃ」
ということになりましょう。
その要は、「相手をコントロールしよう」という一種の邪念ではなく、自らの何かの欲に対応する、もしくは怒りに対応するエネルギーではなく、慈しみの念を出すということです。
慈しみとは、「安らぎがあるように」、もっと俗っぽく言えば「幸せであるように」というような感じだと思っていただいて結構です。慈悲の「慈」はパーリ語でmetta(メッタ)と言いますが、この「慈」は友愛を意味します。
ちなみに慈悲の「悲」は「悲しいぞ」というような感じではなく、「苦しみが取り除かれますように」というような感じです。
慈しみと合わせて慈悲になります。
そのような感じで、執著発端の「好きだ!」というようなものを超えて、自らとの関係に関係なく、相手に「安らかであれ」と念を送るというようなことになります。
結果的に相手は安らかになります。
うさぎの場合は、心地いい時に歯軋りをします。
そして、撫でたりすること無く、つまりは物理的に触れたりすること無く歯軋りするので、「遠隔歯軋り」と名づけています。
慈しみの念を送ると言っても、まずはこちらが安らかでなくてはなりません。そして自らが持つ安らかさを相手に送るということです。
簡単に俗っぽく言うならば、こちらがリラックスしていなければできません。何かの呪文を唱えるようなことをやってもできません。
ですから「送ってやるぞ!」と、力んでもいけません。
「面白そうだから試してみたい」というような動機だと、それはある種の邪念です。自らの楽しみのために、なんて思っていると、そのノイズが混じってしまいます。
自分の持つエネルギーに「安穏の情報」を乗っけて相手に受け取ってもらう、と言った感じでしょうか。
もしくは、安らいだ自分の「安らぎ感」を、「あなたも受け取りなさい」といった感じで渡すというようなことです。
それには自らが安らいでいることと、相手を慈しむということがある種の条件になります。
「自分ちの犬だけがかわいい」
というような、ある種の差別があると、その情報はチンケなものになるでしょう。
我が子などに執著し、相手が見返りをもたらしてくれたりすると期待すると、それがひとつの苦しみになります。
相手の状態によって、悶々としたりするようなことです。
学校の成績が云々、態度が云々、というようなことを相手が元気なら思ったりしてしまいそうになりますが、その相手が瀕死になったりすると、「ただ元気でいてくれればいい」と思い直す、ということがあるでしょう。
子が生まれた時はそのような気持ちを持っていたはずですが、知らず知らずに、相手の成長とともに相手に何かを要求するような事になってしまうことがあります。
しかし、急な出来事があると、とりわけ大病や大怪我なんかをすると、そのような「要求」は取り除かれ、ただ相手に幸せでいて欲しい、苦しみが取り除かれますように、と思えるでしょう。
その純化された気持ちがほとんどイコールで慈悲の心です。
そしてその慈悲の気持ちを、我が子や「自分ちの犬」だけでなく、全ての生き物、心を持った存在に、同じように「安らかであるように、もし苦しみがあるならば、その苦しみが取り除かれますように」と、そのような気持ちを持って、相手に念を送ってください。
そうすると、心をもつもの、つまりは生きているものであれば、その安らぎが伝わります。安らぎは言語よりレベルの高い抽象的な印象です。一種の状態であり、また情報です。情報は言語にした時にそのレベルが下がります。レベルを下げること無く、観念のままの方がいいでしょう。
例えばひなたぼっこしている時のリラックス感を、言語で説明しようとしても、語れるには語れますが、そのリラックス感を厳密に伝えられるわけではありません。言語情報などその程度です。その体感自体の方が情報量は多いはずです。
そのようなことで、わざわざ言語化する必要はないどころか、逆にしないほうがいいでしょう。体感として印象として、そのままその観念自体を純化するということです。
相手が動物であれば、結果的に現象として「歯軋り」をしたり「うたた寝」をします。
できれば誰か目の前にいるひとつの存在だけでなく、一気にすべての生き物に、というのがいいでしょう。
そのようなことで、スッタニパータの蛇の章にある「慈しみ」が、わかりやすいでしょう。
わざわざ読んで唱えるということはしなくて構いません。
この章がもつ印象を瞬間的に想起するだけで十分です。読むには時間がかかります。声に出して読み上げるにも時間がかかります。しかし、その印象、観念自体は捉えられないほど素早く出すことができるはずです。
ある印象や観念を言語化することもできますが、またその逆に言語、文章を観念や印象に圧縮することも可能です。
参考までに引用しておきましょう。
スッタニパータ 蛇の章 「慈しみ」
究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。
足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。
他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、
目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。
何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。
あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。
立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。
諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。
スッタニパータ 第一 蛇の章 8 (中村元訳)
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