起源を知り、それを前提として考えることはあまり勧められたものではありません。まさにその「起源」というものに依存し、その方向性からしか物事見れなくなります。ただ、進化するにつれて元々の意義を忘れすぎな局面も、現代では絶えません。
起源と意義ということで、そうした物事の「起源」をあまりに推し進めることは単なる文化の名を借りた意識的な結界であると思っています。
といっても、物事をよくよく見渡してみると、ほとんどの事が過去に出尽くしているというのは否めません。しかしだからといって、古人や起源が素晴らしいというのは、ナンセンスです。
歴史文化が何ですか?
京都は歴史文化が凝縮されているとは言いますが、それが何なのでしょうか。何百年も前に誰かが作ったものを全面に押し出して「京の冬の旅」と言っても、古いというだけで、何が素晴らしいのか30年以上住んでいますがわかりません。
茶をうまく淹れれて、それが何なのでしょうか。
茶ができる、それだけのことです。
花を綺麗に並べられて、それが何なのでしょうか。
花そのものを感じなさい。
本質的にはその奥にある心の静けさやメタファーにこそ意味があるはずです。しかしながらそれ以上に起源を主張し利権を保持したいという執著や優越感の方が見え隠れします。
駄菓子のほうが美味い
京都では百年程度では老舗とはなれないと言いますが、老舗の菓子屋の菓子より、駄菓子のほうが美味いのはなぜでしょうか。皿の上で表現する、というのはいいですが、それだけで駄菓子の数百倍の価値があるとは思えません。まず、美味いものをつくろう、姿形はそれから、ということを昔から思います。
すいませんがそれよりももっとひどいのは、衣類ではないでしょうか、これほど人間工学や情報処理技術が進む中、どうして下痢を促進させるような「しゃがんだら腰の出る服」ばかりなのでしょうか。
衣類の最大の目的はおしゃれではありません。防寒や防風です。まずそれから極めましょう。デザインなどオマケです。
オマケが最優先されて、圧迫感から血行を悪くしたり、腰を冷やして下痢を促進させるなど、本末転倒もいいところです。掃いて捨てるほど衣類を生産しておきながら、そこには進歩が見られない、芸術家気取りの延長が、文化という「トンチンカン」が、 万人の腹を壊しています。
同様に老舗に胡座をかき、味を追求することもなく、日本庭園などを設置してとにかくブランド化していこうと未だにしています。当然地元民には相手にされていません。
せいぜい地方人に物を贈るときに「京都ブランドだからひとまずこれで満足するだろう」という、味よりもブランドで相手を喜ばせようとする時くらいです。美味いから贈るのではありません。
経済的に考えればそれでいいでしょう。地元京都の人間を相手にするより、どんどん押し寄せる観光客からぼったくった方が儲かります。
姿形にこだわっていただいても結構ですが、その前に「駄菓子よりうまいものを作れ」です。そしてそれが作れないから、老舗というブランドにすがっているのでしょう。
起源と意義 曙光 44
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