認知のあり方と解釈について触れていきます。
社会においては、誰が発したのかというところが影響することがありますが、本来は意味において誰が発するかというところは、哲学領域等々、領域によっては本当に関係がありません。
出典を根拠とされようが、その出典自体は何に保証されているのか、という感じになります。より詳しい論証やデータがあるくらいで、蓋然性が高まる程度でしかなく絶対的な根拠としては成り立たないのです。
ただ、
「内容は同じでも誰が発するかによって解釈が変わる」
ということは、日常でよくあります。文脈によっても変わりますし、発する人の属性すら影響を与えます。
まあ哲学等々のテーマになりそうですが、あえてうつテーマにしました。その理由をあえてはっきりと示しはしませんが、本文の中でおそらくご理解いただけるはずです。
どうせこの先良いことなど一つも起こらない
「どうせこの先良いことなど一つも起こらない」という一種の絶望があったとしましょう。
で、「きっと良いことがあるよ」なんて言われても、曖昧に扱われたとしか思えません。
「良いことって何ですか?」
「どうして良いことが起こると言えるんですか?」
という感じになるでしょう。
そして、「余裕のあるあなただからそんな事が言えるのだ」とすら思えてくるはずです。
まあどうせなので、先に上2つについて、回答しておきましょう。
「良いことって何ですか?」
この心がやすらぎで満ちることです。
「どうして良いことが起こると言えるんですか?」
社会的な良いことは、解釈によって良いとも悪いとも取れる感じで相対的なものです。
「良いことが起こる」のではありません。
それは外界に起こったことを良いと解釈して、反応としての感情が起こることを期待している感じになります。
また、能動的に良いことを起こすというのも、その先にある構造が外界の変化を通じた意識の反応であるのならば、それとあまり変わりありません。
安らぎは「起こる」から得て反応するものではなく「起こさない」からそれになるという感じです。
と、意味がよくわからないかもしれませんが、それは哲学テーマなど他の記事をご参照ください。
さて、今回中心となるのは、慰めとも取れる言葉に対して、「あなたは余裕だからそんな事が言えるのだ」という解釈についてです。
まさに「内容は同じでも誰が発するかによって解釈が変わる」という感じで認知の歪みでもあります。でも歪みではありながら、解釈可能性の一つでもあります。だから間違いではありません。
認知のあり方は状態によって決まる
智慧が目覚めていない限り、人は見たいように見て、解釈したいように解釈しています。
根本的に異性をアクセサリー的なものとしか思っていない人は、その目線で目の前にいる異性を取り扱います。
人格のすべてを見ること無く、お客ならお客、都合のいい人なら都合のいい人、敵なら敵という感じで見ているという感じなので、その意識に沿った形で相手の行為を解釈していきます。
解釈したいように解釈しているという感じですが、その解釈の目線は表層上の意識だけで決めることはできません。
「好きになりたいし、受け入れたいが、何だか嫌だ」
という感じに似ています。
その時、意識の中では合理性を頭で考えたりして、受け入れようと思ってはいるものの、無意識レベルでブロックがかかっています。
相手だって、最大限の慈悲の気持ちで慰めてくれたのかもしれないのに、「余裕のあるやつは黙れ」という気持ちになってきたりします。
そして、感情が高まると知能が低下します。多岐にわたる解釈可能性がある中、その中の一部しか見えなくなるのです。
もちろん全てが見えなくても、ある程度俯瞰して解釈を包括して捉えることはできます。
その包括しているレベルによって、心は穏やかになっていきますし、判断の精度も上がっていきます。
例えば、自分の奥さんは、妻であり、また時に子の母であり、その前に一人の女性であり、一人の人格を持った人間であり、また動物でもあります。強き母でありながら、同時に女子でもあるわけです。そして、人間として、動物としての個としての自由もあり、生存防衛本能もあるわけです。
まあこうした点は後述しましょう。
で、今の状態が認知のあり方を決めるというのであれば、疑心暗鬼の真っ只中にいる人が、どう解釈するかということを検討したほうが良いですし、逆に我が事であれば、「感情が昂ぶり認知が歪んでいるのかもしれない」と思っておいたほうが賢明です。
なお、こうした認知のあり方については、自分の言動が「相手の良い部分が反応させるのか、悪い部分を反応させるのかということにも関わってくるので、対人関係にも影響を及ぼします(対人恐怖と人間不信への対処)。
カウンセラーにキレたあの日
高校3年生の時、まだはっきりと「うつ」や「パニック障害」と診断される少し前、学校の保健室の先生にふらつきや動悸等々を相談したことがありました。
「お薬やってないやろね?正直に言いなさい」
と、謎の疑いをかけられたりしましたが、もちろんそういうことではありません。まあ当時の僕はそんな疑いをかけられる感じだったと思っていただければいいでしょう。
で、もちろん違うので、普通に健康相談をしていると、週に2回くらいやってくるスクールカウンセラーの人のカウンセリングを受けることになりました。
もうカウンセリングを受けるという時点で、負けたような気にもなりましたが、十二指腸潰瘍や帯状疱疹等々も患いましたし、そんなことを気にしていられないほど体調にも出ていたので、しぶしぶという感じで受けることにしました。
数回カウンセリングを受けたりしましたが、今思うと確かに精一杯優しく接してくれていたと思います。
中年男性でしたが、今でもお茶を出す時の優しい仕草などは鮮明に覚えています。
しかし、「理解者」でも触れていましたが、そうした優しい仕草や精一杯の対応すらも「仕事でやっている」と思えば、「僕は金づるなのだろう」ということを感じてしまったわけです。
で、キレて帰った、と。
まあそうなりますね。
任意でのカウンセリングなのでそれっきりになりました。
相手が精神科医やカウンセラーなどであったとして、人によっては「信頼できる人たち」として言葉を信じようとするかもしれませんが、やはり裏側でお金や名誉が動いていたりもしますし、そうした人たちはやはり高額な教育費をかけてその職業に就いているので、「余裕のある環境で育ってきた」という感じがあります。
そういうわけなので、「そんな奴らにはわからないだろう」とか「教育投資資金の回収の踏み台になっている」という感じがしてしまいます。
で、そうした僕の思考、僕の状態をそのスクールカウンセラーは、どうすることもできなかったのです。
どうすることもできない彼が、心を扱っているということ自体が信じられなくなり、それで給料をもらっているなんて「世の中は腐っている」と思ったりしたわけです。
そんな感じで「温室で育ってきて、結局窮地に立つと何もできないお坊ちゃん」という感じの印象を受けました。
まあ今でもその印象はあまり変わっていませんが、それでも職業としてであっても、能力や立場の限りにおいて精一杯は対応してくれていたということは思います。
でも当時の僕の認知のあり方で言えば、そんなことは思えません。ただの高校生の僕にそれを求める方が少し無理があると思います。
「いざという時に何もできない温室育ちのお坊ちゃんが、のうのうとカウンセラーとして生きている」
という感じです。
なので、カウンセラーの人は、そう来られた時にどう対応するかを考えねばならないと思います。
同じように、例えば宗教家だったら「お前らは、先祖の遺した資産とシステムによって不動産収入や冠婚葬祭収入があるからそう余裕をかましてられるんだ」と言われることを想定しておかねばなりません。
「托鉢によって不殺生が叶っているのは、他の誰かが代わりにやっているからじゃないか」と言われることを想定せねばならないという感じです。
そして逆にカウンセリングを受ける人は、「この人だって完璧ではない中、精一杯対応してくれている」ということを思ってみたりなんかして、「大好きなアーティストが同じことを言ってきたら、同じことをしてくれたら自分はどう思うだろうか?」という感じで検討してみると良いでしょう。
カウンセリングする側は、相手の認知の歪みや歪みからくる解釈を先読みせねばなりませんし、される側は、相手の立場によって解釈を変えてしまう自分の認知の歪みを発見して補正するということをしておいたほうが良いという感じです。
解釈可能性を包括しているレベル
先程、少し解釈可能性を包括しているレベルについて触れていましたが、ここでもう少し詳しく触れていきます。
包括しているレベルと判断の精度、そして心の穏やかさは比例していくので、完全に全ての解釈可能性が見えなくても、その範囲が広がれば、それに比例して穏やかになると思っておいてください。
なお、僕がそんな事に気づいたのはヘーゲルを中心とした弁証法の発想や原始仏教のおかげでした。そういうわけで、「哲学は心を豊かにしない」とか「哲学は気が狂う」なんて言っている人たちは「哲学の側面しか見えていない」ということになります。
さて、認知のあり方がメインなので、そうした感じで進めていきましょう。
先程、「奥さん」は、妻であり、また時に子の母であり、その前に一人の女性であり、一人の人格を持った人間であり、また動物であるという感じで書きましたが、その両親の子でもあり、動物としてはメスであるということも見逃してはなりません。
また逆で考えれば「旦那さん」も、夫であり、また時に子の父であり、その前に一人の男性であり、一人の人格を持った人間であり、また動物としてのオスでもあり、その両親の子でもあるということになります。
それにより広い社会性を加えれば、市民でもあり、時に誰かの上司でもあり部下でもあるという側面なども出てきます。
そんな中、例えば、動物としてのメスという目線だけで解釈されると嫌ですし、妻としてだけ解釈されるのも歪みが生じることになります。
しかし、そうした解釈を元に不当な扱いを受けるというのもダメですが、そうした様々な属性を無視するのも歪みを生みます。
人格や能力で評価されるべきところを、性別で判断されるというのは歪んでいますし、逆にそうした性質を無視して人間を一元化するというのも歪んでいます。
なので、可能な限り全てを包括して捉えることが理想的です。
お父さんも父でありながら、その両親から見れば息子です。
お母さんも母でありながら、その両親から見れば娘です。
で、そうした子供の時の記憶が消えているかと言うと消えてはいません。
社会的に求められているのは、父や母という役割かもしれませんが、たまには子供に戻って周りの大人に囲まれたりなんかして、両手を離した状態で安心したいという気持ちを持っているかもしれません。
ある役割にだけ限定されて、それを強いられるということは、必ず歪みが生じてきます。
その原因は「歪んだ認知のあり方だけで接すること」がなされていることによります。
人によっては程度が異なりますが、奥さんの中にある「女子」を無視すると、女子扱いしてくれる人を求めますし、旦那さんの中にある男子を無視すると、男子扱いしてくれる人のところに行きます。
でも、相手にはそうした部分が少なからず残っていて、そうした属性は阿羅漢にでもならない限り基本的には消えないということが見えたのなら、世の中の軋轢の大半は消滅するでしょう。
認知のあり方で考えれば、「自分の都合」しか見えないと、相手のそうした側面を見誤ります。
そして、一人の人格を持った人間であり、いかに社会的な正当性を振りかざそうが、究極的には「個としての自由がある」ということを念頭に置くと、個としての自由よりも、役割を為してくれたことに対するありがたみが見えてきます。
まあ究極的には社会的な役割として、いかに役割が与えられていたりしようとも、それを無視することはできます。
例えばお父さんであれば、子や妻を捨てて、遠くに暮らし遊んで暮らすこともできますし、実際にそうしている人もいるでしょう。
でもそんな中「個としての自由」よりも、父としての自分を選んでくれたお父さんとして見ることができるならば、完璧ではないお父さんであったとしても、時に情けないようなお父さんであっても、いくらかは感謝ができるはずです。
それと同じように、職業として給料をもらっているという状況にあって、その裏に恵まれた環境の中育ってきたという背景があったとしても、究極的には匙を投げることができる中、精一杯接してくれた人のその行為にはありがたさを感じることもできるわけです。
心底理解することはできないし、心底の共感はしていないかもしれない中であっても、相手はそうした環境の中生きるしか無かったということを思えば、こちらが仕方なく劣悪な環境で育っていたとしても、それと同じように相手がその環境で育ってきたのは仕方がないと理解することができるわけです。
その中で、逃げずにいてくれたこと、それには感謝ができるはずです。対応が完璧でなかったとしても、何かを為してくれたこと、そして害のあることを為さないでくれたことには、ありがたみを感じることができるはずです。そこに社会的抑止力や実際の利害を超えた内発性があればなおさらです。
そのようにして、幅広く、そして深く検討してみることで、「今自分が怒りを感じているのは、歪んだ認知の影響かもしれない」ということが思えたのなら、おそらく心は穏やかになっていきます。
もちろん自分が感じたことも解釈の一つとして抑え込まずに、それはそのままでいいので他の解釈も発見してみてください。
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