本能的なものというのは無駄がなく知性的です。
ニーチェがそんなことを言っていました。
純粋に本能的なものほど、知性を感じたりします。
植物たちの無駄のない生き方、感情によって他の生き物を無駄に殺生したり傷つけたりしない動物や虫たち、そうした自然界の生き物たちの本能的な知性は非常に知性的です。
本能レベルを超えた無駄な思考
一方、人間においては本能レベルを超えた無駄な思考があります。そうした思考の結果は非常に非合理的であり、知性を感じません。
「モテるために、英会話をマスターしよう」というのは、実に遠回りで音痴のような気がします。
同様に、スリムになるために食事を制限するというのも、知性的ではありません。
といっても、人間においても本能的な純粋な知性は機能しています。
「今日起きたのは7時、この起きている時間で、あの時にこれだけ、さっきはこれだけ体力を消耗した、摂取した栄養素はこれこれで、なになにが不足しているが、今の所は許容値、ひとまず11時までには寝るべきだ」などとわざわざ計算せずとも眠くなって勝手に寝ます。
実際に数値化して計算して判断しようと思えば、今のCPUの処理速度では間に合いません。
本能ってすごいですね。
実際、高画質の動画を再生するだけでも固まったりします。
でも、人間の目はそれ以上の画質で感じていると思います。
本当はかなり脳は手抜きをしているそうですが。。。
生きるという意味での天才
本来的に気にすべきは本能的な分野のはずなのですが、どうもそれ以外のことを考えて苦悶していしまいます。
苦悩の大元は本能によるものですが、文化的なフィールドに変換して考えてしまうから、わけがわからなくなるのだと思います。
そして苦しんでしまいます。
そう考えると、生命として植物はかなり効率的に生きていると思います。
脳がないと知性的でないのでしょうか。
一概には言えないかもしれません。
植物について考えてみましょう。
まず、苦悩の元凶である思考を持っていません。
なんなら痛覚すら持っていません。
生きるという意味では天才ですね。
一部は虫を食べたりしますが、基本的に水と光と二酸化炭素を主食としています。
その他、主菜としても非生命である土です。
もう仙人レベルですね。いや、俗に言う神の領域です。
自分の生き方はそれでいて、動物に対して栄養を与えることもできるのですから。
恥ずかしさという虚像
三大欲求のうち、最も破壊的瞬発力があるのは排泄です。
眠気や空腹は数時間単位で我慢できますが、どうもあれだけはどんな達人でも無理だと思います。
本能的な事柄になればなるほど恥ずかしさを感じることがあります。
落語でたまにあるように、うどんやそばをすすっている人は何故か笑いの対象になったりします。
でも、本能的なことを否定すればするほど、実は抑圧されて他のところに出たりします。
食事の制限はそのひとつかもしれません。
そしてその最たる例が、性に対する拒絶だと思います。
性
何故か世間ではタブー視されています。
大々的に人に見せつける必要はありませんが、それほど恥ずかしがるようなことではないと思います。
むしろ人生の最大テーマの一つである分野であり、性的衝動は社会の発展のかなりの原動力になっているのも事実でしょう。
性を否定してしまうと精神がおかしくなる場合があります。
イライラは広義の性欲の抑圧だったりします。極端に禁欲的に性が抑圧された集団では、よく集団ヒステリーが起こるというのが良い例でしょう。
また、人の性格は変わっていくので一律には論じえませんが、離婚原因として、世間でよく聞く「性格の不一致」は、もともと好きでもない相手を理性的判断でパートナーとして選択してしまったか、性の問題を性格的なものにすり替えているだけの場合もあると思います。
あと、はっきり言うと、あまりに無関心な人は、理性による判断を持ち込んでいるなど、どこか緊張があって性的な面で解放されていないだけだと思います。
基本的に性に狂う、衝動に振り回されるのが問題なだけで、他者に依存しているとそうなる傾向はありますが、異性を好きになることは、かなり本能的で純粋で知性的だと思っています。こうした点は、みうらじゅんさんの「正しい保健体育」でも読んでみてください。
ただ、本能の赴くままにいると、本能に色々なことを「やらされて」しまいます。それらを我慢するというのではなく、どういった動機が本能からやってきて、なぜ自分はその行動を取ろうとしているのかを観察していきましょう。
最終更新日: