これで2300記事目になります。ブログ創設から2300回目の投稿ということで「第2300回投稿記念」です。
前回の第2201回投稿記念は、2024年7月10日だったので、前回からの99記事は、1年2ヶ月ちょっとかけて投稿したという感じです。またローペースですね。
さて、常連さんいつもご高覧ありがとうございます。
また、contactからご連絡いただいた方、投稿にコメントをいただいた方、ありがとうございます。毎度のことながらたくさんの気づきがありました。また前回から今回までの間にも単純にファンメッセージのようなものや応援メッセージをいただいたりもよくしました。ありがたい限りです。
PC、タブレットなど機器の電源を切ったりする習慣ができたので、ご連絡が遅くなることもありますがご容赦下さい。なお、contact以外からのご連絡は確認が大幅に遅れることがありますのでご留意いただければと思います。
それではおなじみのアクセス解析から見るアクセス状況から投稿記念の回を進めていきましょう。
アクセス状況
アナリティクスがGA4というものになり、見方があまりよくわからず数値も大雑把になっているので簡単にだけ触れておきます。
前回の2024年7月10日から2025年9月13日(計測時点)までの間のユーザーさんの数は、30,294名でした。おそらく検索エンジンアルゴリズムの変更の関係で昨年10月頃から下落し、今年7月ごろからアクセス数は戻ってきました。
ユーザーさんのエリア(23区を市扱いした上での都市別)は、大阪市、新宿区、札幌市、横浜市、名古屋市、港区、福岡市、京都市、渋谷区、さいたま市という結果になりました。
アクセス経路としては、自然検索が78.46%、Directが19.61%という感じになっています。Directの比重が高まっているという点からも、より常連さん向けになってきたという感じがします
さて、そろそろ投稿記念の回らしくより個人的なことについてでも触れていきましょう。
理解不能なサブリミナル
寝起きやボーっとしている時、頭のごみ処理が始まることがあります。
たまにビートルズが流れるんです。
「オーイェーアー」と「I Want To Hold Your Hand」つまりアホな放尿犯が流れてきます。
「これはどうせ『アホな放尿犯』というオチだろう」
と客観視、楽観視しているのですが、
「オーイェーアー♪ペタジーニ」
「誰?」
誰?
となっていると実況が始まります。
「ロナウジーニョ!ストイコビッチ!」
誰?
とにかく外国人だろう、と思い、検索すると本当にそうした名前の人がいるんです。野球選手だったり、サッカー選手だったりです。
で、僕は非体育会系の文化系で、そうした人たちのことは全く知りません。いつ頃、どのような活躍をされたかすら全くわかりません。
全く知らないのですが、ふとした時にそれら人々の名前が出てきます。
これはつまり、まさに意識の焦点をあてていないところからでも情報を収集しているということを示すものであり、端的にはサブリミナルです。
かれこれ20年以上、自分の部屋ならびに家にテレビを置いていないので、日常的にそうした名前を浴びているということは考えにくいと思います。
どこかの店でついていたテレビから聞こえてきた名前、ラジオから聞こえてきた声で勝手に学習しているとしか考えられません。
ただ、普通に考えるとこれら情報はジャンク情報です。あってもいいですが、なくてもいいもので、もしそれが頭の何処かのスペースを奪っているのであれば、取り除いたほうがいい情報です。
あらゆる素晴らしさの行き着く先
たいていの素晴らしいものは、最初は素晴らしくても後世になるとどんどん歪んでいきます。
多分それは、「合理化の先にあるもの」だったものが、その素晴らしさを汎用的にしようとした結果、合理性の内側に閉じ込められるということから起こります。たいていはこの構造です。
例えは数え切れないほどありますが、わかりやすいものと現代において直面しているものについて少し考えてみましょう。
一番わかりやすいものは、仏教やキリスト教あたりでしょうか。
原始仏教がどうやったら最後に「念仏を唱えるだけでいい」というようなことになるのかというプロセスをたどると、やはり「大衆に合わせた合理化」が原因になっています。
各国で政治利用されたり、現代では墓場利権の根拠くらいに扱われていたりします。
実は初期のキリスト教においても、「考えるな、ただ祈れ」というのが中心でした。
「良いか悪いかは私達が考えることではない」という視点です。
「人を裁くな。あなた自身が裁かれないためである」が大切にされていました。
しかしながら、「どうやったらより多くの人にこのすばらしさを伝えられるだろう?」ということで体系化され、組織化されていって「考え」で争うようになりました。
本末転倒です。
近代~現代においてわかりやすいもので言えば、ミルトン・エリクソン氏の治療が、人を騙す方向に応用されているというような点でしょうか。
ミルトン・エリクソン氏は、単に患者の人生を素晴らしいものにするという着眼点しかありませんでした。
その治療実績があまりにすごいので、その方法を抽出して、みんなで治療に活かそうとする人達が出てきました。
するとその方法論は、ビジネスや政治に応用され出しました。
ミルトン・エリクソン氏は、目の前のたった一人の患者のために催眠治療をした人です。あくまで相手の幸せだけを願っていたはずです。
その意志の部分は無視され、手法だけが模倣され、現代の認知科学、脳科学者も人をコントロールして人の時間とお金を奪うことばかりに加担しているようなフシがあります。
これは統治のために宗教が利用されるという構造に似ています。
ミルトン・エリクソン氏は、患者を治療することをしていました。
しかし、彼の手法は、彼の死後、人の精神を病気にする方向に応用されています。
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近年で言えば行動経済学などという分野において、そのにわか知識でドヤ顔する人達も出てきています。少し前なら社会心理学等々がそれでした。
ヒゲを生やして「環境をデザインする」などと語りながら、結局は「はい/いいえ」の選択肢を「はい/またあとで」という選択肢に変えているだけです。
これが個人レベルなら「そんな騙しに引っかかるわけがないじゃないか」と思いそうなものですが、相手が大量になると、一定数そうした「またあとでやるんだ」と誘導される人が出てくわけです。
AはBであるというのが正しくても、CやDも正しい場合があります。それを「AはBだけなんだ」という前提を作ってその後の意志決定を誘導しようとするような戦いばかりです。
そんなこんなで洗脳戦(認知戦と言ったりする人もいます)が繰り広げられていたりするわけです。
まあこうしたものは昔から変わりありません。
端的にはそれが「自我」で構成された「人類」であり、「良いのか悪いのか」を判断するという空間に飲み込まれず、「なぜそうなのか?なぜそうなのかがわかれば解決策が見える」というわけでもなく、そういうものなのだと身も心も軽くしておくのが一番だという感じです。
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それでは引き続きご愛読くださいませ。