物には時がある

物が物として存在するためには時間が必要になります。

すごく簡単な話で、認識するためには時間が必要だからです。

認識がなければ物は存在していようが、存在していないのと同じです。五感のうちのいずれかに認識されなければ、無いのと同じです。

そしてほんのわずかでも認識には時間が必要になります。ストップウォッチでは測れないほどの時間かもしれませんが、時間が必要になります。

もし時間という解釈がなければ、五感は働きようがありません。時間の解釈は一応意識が行っています。つまりアイツの領域です。

実際には物が存在するというよりも主観が対象を捉えるという感じになります。

時間は一種の解釈

時間は一種の解釈です。人間と独立して何か次元として存在するものではありません。これは「客観的に、また社会的に考える」という歪曲された事実解釈を度外視すればすぐにわかります。

時を止めることはできないかもしれませんが、時間の解釈という機能を停止することはできます。極度の集中で意図的にできる人もいますが、そんなことができなくても、深く眠っている間は、時間はあったでしょうか。

考えれば分かることですが、眠っている時を動画に収めても時間があったことの証拠にはなりません。そういう問題ではなくて、眠っている時に認識が途切れた時、モノも時間も実感としてなかったはずです。

実際は大きな音などで起きたりするので、完全に認識が止まってはいませんが、睡眠はわかりやすいたとえかもしれませんね。

時間が止まっていることを確認するのは不可能

これは時間が止まっていることを確認するには時間が必要になる、ということです。そういうわけで時間が止まっていることを確認することは論理的に不可能です。

時を止めることができない、というのは外部の人の認識に入ることはできない、という意味でだけ正しいといえそうなところです。絶対的にあるかどうかは誰にも証明はできません。

その外部すら、外部だと認識・解釈しているのだから、あるのかないのかはやはり自分の中でしかありません。ということは止まること自体が自分に起こっているのに、どうして時間が進むことだけは絶対に正しいと言えるのか不思議です。

数学上の点が面積を持ってはいけないように、物の存在も自分が捉えているだけということになります。

対象が全くなければ対象を捉えるということも起こりませんが、視覚情報としての信号、触覚情報としての信号という物を超えて、今この瞬間に自分が捉えていること以外に「客観的に存在する」ということを証明することはできないのです。

そして、そうした対象を捉えるということが起こるためには、変化を捉えるという意味での時間の解釈が必要になります。しかし、時間が客観的に存在するのではなく、主観が変化したということを捉えていることに対する主観の印象、主観の解釈でしかないのです。

 物には時がある 曙光 3

Category:曙光(ニーチェ) / 第一書

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